MAKING ROCKCLIMBING ROUTES
近所の岩場に新しいルートを作る
MAKING CLIMBING ROUTES 近所の岩場に新しいルートを作る 10.27 絶好の秋日和である。富士山は紫色に輝き、てっぺんあたりは何度目かの雪で 薄化粧している。近所の黄葉はカエデの類か。透過した光がやわらかい日差し を庭におとしている。葉形はカエデのようだけれど、黄色くかわるカエデもあ るのだろうか。垣根のあたりのドウダンツツジは真紅に色をかえて今がいちば んよいときのように見える。風はいくらかあるが、陽気はぬくぬくとしていて 、こんな日ならだれでも幸せな気持ちになれるにちがいない。クロは、朝日を あびてベランダにべったりと腹をつけてうつらうつらしている。黒い毛皮の敷 物になってしまったようだ。いまがいちばんよいとき、と思っているにちがい ない。だれでもクロのように考えられれば人生は言うこと無しだ。 作りおきの雑煮スープに七輪でモチを焼いていれる。 夜中に到着したらしい池の内氏がのんびり起きてくる。手酌で深酒をしたのか、 ああーとかううーとか言っている。 朝飯をすませ、クライミングの道具をガチャガチャ言わせて整理し、電動ドリ ルのバッテリーを充電し、そういえばいまのうちにやっておこう、と水道管に 凍結防止のヒーターをまき、そういえばこの不凍栓も、と思いつき、かがまな くても開け閉めできる孫の手方式のハンドルをとりつけ、してやったりとその 成果をよろこぶ。畑に立って、冬も近いというのにいまだ未成熟な大根たちを、 この後どうしたらよいものか、などと考えたりしているうちに、いよいよ日が 高くなってきた。 「そろそろ出かけようか」と車のエンジンをかける。クロが飛び乗ってくる。 予想に反してすいすいと湖畔の観光道路をドライブして30分ほどでサイコの 駐車場に到着。いつものように急な山道を大汗かきながら、岩場の基部につく ころには11時になっていた。クロも水筒の水をがぶがぶと飲む。 今日の仕事は新しいクライミングルートを作ること、その3である。先週のう ちに大体見当をつけておいた岩場上の仮想のルートに安全確保用のボルトを打 ち込むこと。そうすることによって、だれでもトライすることのできるピカピ カのクライミングルートが完成するのだ。朝方用意した電動ドリルは充電式の バッテリーを使う野外用で、ボルトの穴を岩にあけるためのもの。重い思いを してここまで持ち上げたのである。 あまり人の世に知られていない事実についてお伝えしたい。 地表部分の堅い岩石が露出して絶壁となっている自然地形が国内あちこちに 在する。一般には岩場とよばれるのがそれだ。そしてそこが登山道や林道の近 くであるのならば、そこには必ずといっていいくらいクライミングのルートが 作られている。なん十年も昔から日本中の岩場にクライミングの愛好家がルー トを作ってきた成果がそれである。そのつもりでそれらしき岩場を見あげれば 上にむかって一列に延びるボルトやハーケンなどを発見できるはずだ。それが クライミングルートである。一般の人の知らない事実であろう。 岩壁があればそこでロッククライミングすることが可能だ。ただしそこがぼろ ぼろの崩れやすい岩場だとクライミングを楽しむには危険すぎる。落石などの心 配のないしっかりした岩場を発見したら、土や泥などでを落し、コケなどは剥が して、金ブラシでクリーニングする。その後、安全確保用のボルトを打ち込んで ルートとする。これがロッククライミングのルートを作るということの必要充分 な説明である。 作られたルートを初めて登るのが初登攀。初登攀するのは普通はルートを作った 本人であることが多い。初登攀した人はそのルートとそのグレードを世界中に発 表できることになっている。そのルートに自分の好きなように名前をつけること もできる。自分の子供に名前をつけるようなものである。そういう伝統がロック クライミングの世界にはあるのである。 日本中の岩場にクライミングルートが作られてしまった現在、もう新しいルート の制作は不可能かといえば、それがそうでもなく、いまでもあちこちで愛好家た ちは新しいルートを作りつづけている。辺境の岩場や林道から遠く離れた岩場、 山の上の岩場など、あるいは有名な岩場の脇や、日の当たらない裏側、にいまで もクライミングルートはつくりつづけられているのである。 今回のわれわれプランは、知るひとぞ知る古い岩場、山梨県のサイコ湖畔にあ るサイコ、そのメインゲレンデの脇や日の当たらないその裏側、あるいは既成 ルートと既成ルートの間に、新しいルートを作るというもので、およそ10本 のルート制作が計画されている。われわれは先週と先先週とその前の週、さら にその前…、すでに5本のルートを作ってきた。 今日はぼくが1本、池ノ内氏が1本、屏風のようにヨコに広がるサイコの岩場の もっとも西の端に、新ルート完成のためのボルトを打つという胸おどる日なの である。湖は銀色に輝き、そびえる巨大火山は反逆光の美しいシルエットをひ ろげている。さきほども申し上げましたが、すでに先週のうちに仮想のライン は考えられていて、コケなども落とされ、金ブラシとハンマーで、指や手に危 害を与えそうな粒子やもろい岩角などは処理されていて、あとはボルト打つば かりの状態。サイコのもっとも西端にあるこの新エリアは、本日、われわれの 到着をいまや遅しと待っていたのである。 ドリルやボルト、ハンマー、そのほかいろいろを身につけて仮想ルートの最上 部へ登る。ロープにぶらさがりながら、ドリルで岩を穿ち、ボルトを入れて、 レンチで締める。錆びとめをほどこしたボルトが灰色系稀褐色の岩場に銀色の 星のようにキラリと輝く。岩壁のすぐとなりでは作業用の革手袋をはめた池ノ 内氏がもう一本のロープにぶら下がりながら金ブラシで岩を磨くことに余念が ない。声をかけるが返事がない。金ブラシ作業に全身全霊で没頭しているの だ。けっこう変わっている人かもしれない。 ロープ伝いに下りながらたちまち7本のボルトを取り付けた。新ルート完成。 ドリルを池ノ内氏に手渡し、こんどは彼がとなりの仮想ルートにボルトを打 つ番だ。再び最上部に登り返し、同じようにドリルで穴をあけボルトを埋め 込んでいく。 ぼくは折りたたみのノコギリとカマを出して登り口付近のヤブやら草などを 刈り込んで、整理し、あまつさえ整地まで始める。 電動式ハンマードリルの機械的な轟音が岩肌にこだましている。池ノ内氏もま たたくまに4本ボルトをとりつけたようだ。見上げると5本目の穴をあけよ うとしている。そのときドリルが急にか弱い声に変わる。 「ちっ。バッテリー切れだ」岩場を足蹴にして悔しがる池ノ内氏。あと2 本で新ルート完成だというのに。一度小屋に戻って充電しないかぎりド リルはもう動かない。 岩場で地団駄する池ノ内氏。 「ま、しょうがない。残りの2つのボルトはまた次回」 しばらく休憩とする。クロは山が好きだ。あちこち くんくん鼻をならしながら散歩している。ケダモ ノの匂いがするのだろう。チーズと水をあげ ると、こんどはごろりとヨコになって昼寝 を始めてしまった。全山錦秋、落葉して 明るくなった森の中へは日が差し込ん で下草の紅葉はいっそう鮮やかだ。 今さっき、ぼくが作ったばか りのルートを登ることにする 。ボルトが打たれたから安全 に登ることができる。ロープ をハーネスにつけてまず僕がト ライ。安全は確保されていると はいえ、ボルトより上部で落ちれば それなりの距離を墜落するわけだから 慎重に行く。池ノ内氏は下でロープを握りぼ くの動きに合わせてロープを繰り出している。 「……」 「……」 二人とも声はない。 いくつかの手がかりや足がかりはボルトを打つ時 に確かめてあるから、その点安心だ。難しいと思わ れるところの動きもその時に研究してある。 下からみるとカンタンに見えたところが意外とむ ずかしい。ぼくをロープで安全確保確保している池 ノ内氏が両足の間から小さくみえる。 足が震えるような難しいところが2箇所ほどあった。 なんとか墜落せずに5本目のボルトを越えると、見 上げているはずの池ノ内氏は岩の下で見えなくなっ た。 息があがっている。最後のボルトにロープをかける と急に傾斜がおちて、あとはカンタンに終了点に到 着した。 一息ついて振り返ると富士山が大きい。湖には小さ なボートがなん十も浮かんでいる。へらぶな釣りの 舟のようだ。 ロープ伝いにするすると下る。 「やったね。オメデトウ」池ノ内氏がうれしそうだ。 つぎは池ノ内氏が登る番。 ロープをハーネスに結びつけながら言う。 「グレードは?」 「10くらいかな」ぼくが答える。 グレードは難しさのことで、5から,15まである。 15が現在世界でいちばん難しいクライミングルート のグレードである。この数字は世界で通用する基準な のである。 池ノ内氏がぼくよりもあきらかに慎重に登りはじめる。 慎重だが迷いはない。ゆっくり確実の登っていく。ボ ルトに正確にロープをかけながら登っていく姿に見 ているほうも安心感がわいてくる。 さすが永年世界のあちこちでクライミングを経験 してきたエキスパート。核心の部分をあっさり 越えて姿が見えなくなった。しばらくして「オ ーケー、登ったよ」の声が頭上から聞こえてき た。 池ノ内氏が再びロープにすがってするすると降 りてくる。 息を弾ませることもなくニコニコ顔で言う。 「グレードは10だね。いいルートだよ。名前は なんて付けるの?」 まだ考えてない。「こんどまとめて考えよう よ」と答える。 日が傾いてきた、湖が金色に輝き始めてい る。急に冷えこんできた。今朝、水道管に ヒーターをまいたのは正解だった。 店じまいの荷物をまとめながら池ノ内氏 がいう。 「もう一回だね」 バッテリー切れでまだ2つのボルト が打たれていない。来週もまたこ こで仕事しなければ。 「さっき観察していたら岩 場のもっと西端にもま だルートが作れるみ たいだ」もう仮 想ルートを考え ているらし い。再来週の 仕事もありそうだ。 それにしても、池ノ 内氏は都会ではどんな 仕事をしているのだろうか 。なにしろ、ここ1.2ヶ月というも の週末という週末はこの岩場で過ごし ているのだから。彼の仕事はともかく、クラ イミングルートを作るということが大好きな人である ことは間違いないようだ。クライミングルートを作る仕事は もちろん一銭にもならない奉仕のような仕事なのだから。時間 とボルトなどすべて自己負担。好きでなければできない土方仕事 である。好きだとはいえ、先先週など、ボルト打ちの最中、つかま っていた枯れ木が折れて数メートルでんぐりかえって墜落するハプニ ングまであったのだ。ルート作りは命がけなのである。池ノ内氏はやa はりちょと変人かもしれない。 古いロッククライミングゲレンデ、サイコ。クライマーが訪れ ることもまれな忘れられたゲレンデ。新しいルートが作られ ることによって、またクライマーが少しずつやってくる のかもしれない。 あたりが暗くなってきた。クロがしきりに帰りた がっている。秋の夕暮れはつるべおとし。 突然ひらめいた。そうだ、今朝かた、 頭を悩ませた畑のいじけたダ イコンは明日にでも収穫 してタクアン漬けとし よう。名案に満足 して暗くなりは じめた急な 山道を かけ おり た。