IN THE WOODS

大先輩の岩のぼり


北岳第4尾根で

小俣さんはひょうひょうと最後のピッチを登ってきた。確実で安定した
クライミングだ。ニコニコ顔。僕のところまでくると
「やったね」
と手を差し出す。うれしそうだ。
小俣さんは念願だった北岳バットレスをついに登った。本格的
アルパインクライミングだったが、余裕で登ったように見える。60歳を超
えているとは信じられないその元気。いちばんすごいと思うのは、遊びの心が
元気なことだ。
もうロープはいらない。クライミング用具を腰や肩から外してザック
におさめる。ヘルメットもぬいで帽子をかぶりなおす。
あと一時で北岳の頂上だ。
@
年に一度か二度高い山に岩登りに行きたくなる。
ふだんは山登りの仲間と、近場のゲレンデや室内ジムでロッククライミングの
練習をしているのだが、高い山で本格的な岩登りをすると、クライミングの楽
しさが増幅するのだ。もともと岩登りはアルプスのような高い山に行って行
うものであった。標高3000メートルの付近でのクライミングしていると、
まさに天と地の間にいるという感じがして悪くないものである。
「どんなに難しくて大変な遊びであろうか」と考える人もいるかもしれないが、
この高い山でのロッククライミングは、じつは意外とかんたん。
というのもふだんゲレンデや室内ジムで練習している技術の半分以下の
テクニックで登れるようなルートを選んでいるからなのである。
なーんだ
ないのである。技術的な困難さ以外に、高山では標高や気象などそのほかの要素
が加わることもあってテクニックのことばかりは言っていられないのだ。
そんなわけで、北アルプスや南アルプスなど季節のよいときを選んで身
のほどにあったルートを選んで毎年登っている。

スキーの仲間、というより先輩の小俣さんは、南アルプスの北岳が大好きで、
毎年仲間を誘っは登っている。あるとき、「なんども北岳には登ったけれども、
北岳バットレスからはまだ登ったことがない。」と話してくれた。
「じゃ、こんど行きましょう」と軽く請け合ったのだ。北岳といえば富士山
につぐ日本で第二の高峰。その頂上に突き上げる第4尾根は長くてきれいな
岩登りルートとなっていて、まさに3000メートルの岩登りが楽
しめるところなのである。有名なアルパインクライミングルートというわけだ。
軽く請け合ったのには理由があった。
ぼくもそこを登ってみたい、と思っていたから。このところ毎年のように北岳
バットレスを登っていて、今年も、と思っていたのである。標高差1700
メートルもあるこの岩登りはカラダによく効く絶好のトレーニングなのである。
もうひとつの理由は登るが小俣さんだったからだ。小俣さんは60歳を超
えているはずだが、足腰の丈夫なことは冬のスキーで承知のうえ。さらに
クライミングが好きらしく、以前はどこかのゲレンデでクライミングの講習会
を受けているのに出くわしたことがあった。そのときの小俣さんの登り方を見
ていたからである。
小俣さんは目標のルートを登る十分な条件を備えていたのである。ふつう
の60歳のおじさんを北岳の岩登りに誘うことになったら、ぼくは深刻に考え込
むことだろう。

8月も終わりになって、夏山シーズンもそろそろというころ、その北岳
バットレスを小俣さんと登ることにした。去年いっしょに登った仕事なかまの
川崎さんにもプランを伝えると「おれもまたいきたい」と素早い反応。
日曜日は混雑するといけないので月曜日に登ることにした。人気岩登りルート
には人が集中することがある。混雑すると、落石があったり、順番待ちで渋滞
することもあって面白くないのである。予定の月曜日は天気予報によると曇
りか雨。
前日の日曜日、小屋にやってきたお二人。装備をしっかりと整えてはきたが、
天気予報がそれだから気合いはあがらない。どうしようか、と最新の天気図を
見る。明日登るのなら、今日中にスタート地点の広河原に
入っておかなければならない。
「この天気図を見ると、ふつうなら中止というところですね」と僕。
一般の山登りならいくらか雨風があってもなんとかなる。アルプスでもおなじ、
だが、それがアルプスでの岩登りとなると危険度は倍増する。岩は濡れると
スリップしやすくなるから、それがいちばん恐いのだ。第一、天気が悪い時に
クライミングなどしても楽しくもなんともない。
古いともだちと小屋で小宴会を開くのもよいものだ。そんな気分に流
されそうではあったけれども、
宴会は現地スタート地点でもできるではないか、という目からウロコの発言
があって
衆議一決、とりあえずきょうは広河原に入ろう、ということに。夜は小宴会、
翌朝雨だったら戻る。万一天気が悪くなければ登ればよいというプランだ。
岩登りの装備に加えて、テントやお酒などを積み込み、厚い雲の流れる空のした
甲府盆地経由南アルプスの登山口広河原へ。
小屋から3時間。その夜、小さなあずまやの下、ランプの明かりたよりの宴会
は楽しいものだった。

あけてよく朝。
思いもかけない好天。北岳の頂上までハッキリ見える。第4尾根が朝日を浴
びて輝いている。
あわててお茶を飲みおにぎりなどをほうばり、6時前には歩き出した。この
広河原が標高1500メートルだから頂上まで1700メートル弱ある計算だ。
大樺沢を登っていく。夏山シーズンが過ぎたとはいえ、人気の山だから人足が
途絶えることはない。雪渓がでてきた。何百メートルも続いている。空気が
ヒヤッとする。前の冬は大雪だったから今頃まで残ったらしい。雪渓から小さな
枝沢に入る。急でガラガラしたがれき状の沢をつめていくと、城壁のような大
きな岩場が行く手を阻む。こればbガリーの大滝といわれる岩場だ。ここが岩登
りのスタ ート地点だ。
「ひとやすみしてから登りはじめましょう」ここまで3時間近く歩
いているから、休憩とエネルギーの補給が必要だ。
靴をクライミングシューズに履き替えヘルメットを取り出し、ロープなど
クライミング用具を点検する。
朝の光りがさわやかだが、山肌にはもうガスが湧きはじめている。
「落ちてもロープで止めますが、できるだけ落ちないようにしてください。浮
き石がありますから気をつけて」
北岳バットレスは1000メートル四方くらいの大きな壁だが、
そのなかにいくつかの尾根と急な沢が入り込んでいて複雑な構成となっている。
下部岩壁と上部とに分かれていて、下部岩壁にはいくつものルートがある。今回
はbガリーという易しくて快適なルートを選んだ。上部は直接頂上に突き上げる
人気の第4尾根を登る。
岩登りは普通、複数の人間がロープで結びあって交互に登っていく。先に登
るのがトップであり、後ろからいくのがフォローである。トップはリード
ともいう。
今回は3人なのでひとりが2本のロープをひっぱりながらリードして、つぎに
他の二人が同時に登るシステムとした。
下部岩壁のbガリーは3ピッチあった。1ピッチと2ピッチはぼくがリード。3
ピッチ目は、
「先にいってみたい」という小俣さんの気分で彼がリードすることになる。
慎重に登って、なんの問題もない。
小俣さんも、それよりは若いけれど、それでも50歳をとっくに超えた川崎
さんも元気なものである。
口笛をふきながら登る、という余裕だ。
下部岩壁を登り切ると、お花畑がひろがっていて、晩夏にさく山の花がかれんに
咲き競っている。朝方登ってきた大樺沢が目の下にあって、雪渓が大きく広
がる。登山者がアリのようにその雪渓のわきを歩いているのがみえる。まさに
天と地の間に、の気分である。
再び小休憩。岩登りは、これから待ち受けるルートのことや天候が急変
しないか、などということが気になってゆっくり休んでいられないタイプの山登
りではある。
次ぎに目指す上部岩壁の第4尾根はすぐにわかった。幸いなことに平日
とあって、そのうえ天気予報が悪かったせいか、ほかに
登っているひとはいないようだ。マイペースでいけるし、上から人工的な落石
がないことがうれしい。

第4尾根は全部で8ピッチほど。急なむき出しの岩尾根だから高度感もあるし、
その分恐いというか気分がよいというか、クライミング特有の痛快な感覚が味
わえる。昼になってあたりにガスが湧いてきた。高山の雰囲気がいっぱいだ。
天気はしばらく崩れることもなさそうだ。ラッキー。
とんとん拍子でのぼり、時間に余裕もあるのでところどころ小俣さん、川崎
さんもリードする。
クライミングではリードする人が危険性が高い、その分恐さも充分。一方
フォローは、安心して登れるがその分、充実感が少ないかもしれない。自信
があればたいていの人はリードして登りたいと考える。達成感がちがうからだ。
「リードすると面白いですね」小俣さんはうれしそうだ。
一カ所、尖塔のような岩峰からロープ頼りに伝い降りる場所がある。その技術は
懸垂下降といわれているが、ロープ1本にぶら下がって谷底に向かって降
りるのは、何回経験しても、どんなにベテランになってもこわいものである。
「何回か練習したことがありますから大丈夫です」小俣さんはなんの不安
もなく降りていった。
懸垂下降は面白いと余裕だ。
ガスが濃くなってきて、その切れ間に、向かいの尾根を登っていく登山者の列が
遠望できる。ファンタスティックな光景だ。
最後の岩尾根を慎重に超えると、たたみ100畳くらいの岩の平らにでる。
その先には色鮮やかなお花畑がひろがる。岩場は突然終了して別天地が開
けるのである。そこから15分も登れば北岳の頂上。
@
頂上には数人の登山者がくつろいでいた。ガスが遠巻きに湧いていて遠くの山
は見えないが、周辺の尾根や沢はクリアだ。風もなくぽかぽかとした陽気。
平和な頂上。こんなときに頂上に立てるのは幸せなことにちがいない。岩尾根を
クライミングして辿り着いたのならなおさらだ。3人あわせて162歳という
高年クライマーたちは、頂上で特別にはしゃぐわけでもなく大人
しいものであった。
「天気予報ははずれたね」
「おれたちはアタリだ」
「山の天気はとにかく現地まできてみないとわからない、というのが今回の
教訓」
一般登山道である草滑りルートをいっきに下り、朝出た広河原には3時間
もかからなかった。出発から帰還まで11時間。下りに勢いよく走ったせいで、
翌日、その翌日と筋肉痛などの後遺症が激しく3人を襲うハメになることを、
このときはまだ予想していなかった。
糸尾汽車

in the woods

home