IN THE WOODS

霧の燃える山

山本明

 今でも「彼」を忘れてはいない。あれから多くの歳月が流れた。南ア林道が北
沢峠に通じ、バスが運行する以前の話だ――。

 土曜日で、おまけに明るいうちに着くバスはこれが最後なのに、終点の戸台口
で下車したのは僕ひとりだった。時刻は3時半、九月下旬の傾きかけた太陽がた
まに雲間からのぞき、山々を黄金色に染めていた。
 今日は北沢峠まで行く。平坦な戸台の谷をつめ、急登は八丁坂のみだ。コース
タイムは6時間だが、その半分強で着けるにちがいない。歩きには自信があった
。北沢峠でテントを張り、明日は初の仙丈岳を目指す。
 戸台まで来ると木札が立ち、台風で登山道は赤河原の分岐付近まで決壊中、と
書かれていた。どうりで誰もいないワケだ。だが沢筋には踏み跡があり、それを
辿ることにする。仙丈なんて所詮ボタ山、軽く片付けてしまおう。
 踏み跡の歩きにくさに閉口しだしたころ、空身の男性が追いついてきた。僕に
鋭く一瞥をくれると、
「キミは高校生か。困るな、高校生の単独は。四カ月前にも遭難してんだぜ」
 一つ年上の高校生のことは新聞で読んでいた。鋸岳に出かけた高3が下山日に
帰らず消息不明に……。男性は戸台村の人で北沢峠の小屋番だという。
「オロクはまだ出てない。仕事があるから先に行くが、道も荒れているし、キミ
も充分気をつけてくれ」
 そう告げると、男性は河原を駆け上がっていった。ショックだった。遺体は収
容されたものと思っていたのだ。谷を塞いでそびえる鋸岳は分厚いガスに覆われ
ていた。あの霧の中に、異臭を放ち野晒しのまま横たわる。おぞましさに戦慄し
た。一刻も早く鋸岳の麓を通過して峠に着きたい。迫る暮色と競いながら無人の
谷を急いだ。
 2年になって山岳部をやめた。もっと激しく山と向き合いたい。仲間を募り八
ヶ岳で岩登りもした。単独も今回が最初ではない。
 突然、渓谷に木々のざわめきが響き渡った。山風が吹き始めたのだ。それを合
図に、鋸岳の中腹からガスが堰を切って滑り落ちてきた。谷底に到達した霧は幾
筋もの奔流となって広い谷を疾走してくる。押し寄せる様はさながら津波だ。茜
色に輝く虹が波頭を飾っていた。呆然と見ていると、霧の波は背後にも押し寄せ
、一瞬にして僕を飲み込んでいった。
 霧の中は静かだった。すべてが鈍色に溶け込んでいた。判然としない踏み跡を
探しながら上流に向かう。ガスは濃さを増し、視界は2mを切った。単独の寂寥
が身を焦がす。

 いつしか夜が辺りを支配していた。ヘッデンを灯したが、霧は光を乱反射し目
映い壁となって眼前に立ちはだかった。霧は光る闇だった。ライトを足元に向け
て進む。踏み跡を追うことはすでに困難な作業となっていた。
 霧の底を黙々と歩き続けた。ふと、やけに倒木が多いことに気づき、愕然とし
た。周囲を探ると沢幅も狭い。流水の跡や獣道を踏み跡と誤り、枝沢に入り込ん
でしまったようだ。慌てて下るが、沢は滝となって切れ落ちていた。時計は7時
。鋸かそれとも仙丈の小沢か。赤河原の分岐点を見失い、甲斐駒の方角に迷い込
んでいる恐れもあった。
 鼓動が頭の中に響く。踏み跡や目印を探し、霧の中を闇雲に動き回った。崖を
登り、ルンゼに降り、木の根に躓きながら薮の中にも分け入った。
 原生林から突きでた岩の上でザックを下ろし、頭を足の間に落としてうずくま
る。もうクタクタだ。衣類は霧を吸って下着まで濡れていた。10月も間近だった
。めったやたらに寒い。断続的に震えが走る。
 一時の勢いはないものの、霧は澱んで体にまつわりつく。何やら強烈な睡魔が
襲ってきた。こんな寂しい場所で進退窮まった。あの高校生のように僕も遭難す
るのか。

 眠気を払うために顔を起こしたときだ。前方の闇に淡い明かりが浮かびあがっ
た。大きく小さく、風に煽られる炎に見えた。霧が燃えている、朦朧とした頭で
そう思った。
 次の瞬間、我にかえった。霧に彷徨っていたのは僕だけじゃない。明かりはラ
ンタンだろう。距離は三十mほど。荷物を背負い、声をあげて明かりに向かう。
 が、声が届かないのか、明かりの主は動き始めた。ルートから外れた霧の中な
のに足取りは確かだ。置いていかれる恐怖で足を速めるが、追いつくどころか離
されてしまいそうだ。気は急くが岩や潅木が行く手をはばむ。足はもつれ、両膝
に手を当てて一呼吸つく。すると明かりの主も立ち止まり、こっちを窺っている
。僕の存在を知っていたのだ。霧を通して相手の眼差しが突き刺さってきた。
 でも、それも束の間。明かりはまた無情に遠ざかる。なぜ、待ってくれないの
か。僕が遅れても、もう歩調を落としてはくれない。無視ではないが突き放す。
泣きじゃくりそうになる自分を、唇をかんで懸命に耐えた。とにかく、冷静にな
ろう。
 付いてくるのは勝手だが、甘えないでほしい。キミも単独なんだから他人に頼
りきりになるな――。明かりの主の歩みからは、そんな主張が伝わってきた。
 霧に迷い、パニックに陥った。うろたえていた自分が見透かされている。わか
った、僕も単独行としての矜持をもとう。真剣に付いていく。だめならビバーク
なりして、自分でなんとかする。足手まといにはならない。決意すると全身に精
気が甦るのを感じた。

 間隔を詰めようとすると、わざと速度を上げる。先行する明かりの主は僕との
脚力較べを楽しんでいるようだ。追いつけるもんならやってみな――挑発という
よりもちゃめっ気に近い。受けて立とうと僕も必死に歩く。 40分ほど明かりを
追うと、唐突に登山道にでた。さらに道を進むと、赤河原分岐の道標が霧に漂う
。心に安堵が広がった。ここから八丁坂を登りさえすれば、北沢峠にたどり着け
るのだ。明かりの主はすでに遥か頭上の八丁坂にいた。おぼろげな光が梢に見え
隠れしていたが、手を振るように明かりを左右に揺らすと視界から消えていった
。霧は濃いが、道は確かで不安はない。

 急坂に音を上げながら高度を稼いでいくと、いきなり霧が晴れた。夜空には無
数の星がきらめく。濃霧が嘘のようだ。しばらく歩くとほんのりとオレンジ色の
明かりが山裾にもれ、北沢峠の小屋が近いことを知った。
「やっと来たか。心配していたぞ」
 小屋番の人が戸口から声をかける。数人の登山者も一緒だ。もはや10時になら
んとしていた。事情を説明し、先導してくれた方に挨拶したいと語ると、小屋番
の人は奇妙な物を見るように僕の顔をしばらく覗き込んだ。
「オイ、みんなで8時から待っているけど、戸台から上がってきたのはキミひと
りだぞ。私が途中で抜いたのもキミだけだ。1時間ほど前に東大平あたりまで探
しに行ってもらったが、誰も見かけなかったそうだ」
 登山者たちも一様に頷いた。沈黙した後に小屋番の人は続けた。
「山じゃよくある話だ。あの高校生だろう。同じ高校生ってことで、助けてくれ
たんだよ。帰りに鋸岳に手を合わせていきなさい」

 小屋に泊まっていいといわれたが、これ以上、迷惑をかけてはならないと辞退
した。テントを張り終え、忍ばせてきたポケット瓶を口にする。食道から胃、全
身に小さな炎が染みていく。はらはらと涙が流れ落ちてきた。その夜はなかなか
寝付けなかった。

 赤いナナカマドの実が繁る道を一心に登った。仙丈にいるのは僕だけだ。薮沢
のカールで休憩する。カール底から天に向け、巨大な山容が一気に吹き上がる様
に圧倒された。振り返ると甲斐駒の肩に鋸が連なる。褐色の胸壁が陽光を照り返
し、底が抜けた濃紺の空にいつまでもはためいていた。

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