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”石工さん”へ愛をこめて

伊藤忠男

PHOTO BY K-ITO
 
 

”石工さん”へ愛をこめて			伊藤忠男

前の春から夏あたりに、小川山で結構手の込んだチッピングが行われたらしい。つ
いでにボルトの乱用と思しき所業もあったようで、プロやプロ紛いの超うまいクラ
イマーが悩んでいるみたいだ。
ボクは、5.9や5.10で万年四苦八苦してそれでもこの道楽を面白がってるド
ンクサ・オヤジだ。だから「クライミング界」の往く末なんて雲の上の話だが、そ
れでもチッピングやランヨウは、直感的にいやだ。そういうことは基本的にヒキョ
ウモノ(タマナシと云いたかったがこれは差別用語らしい)のやることだからで、
「ヘボでもXXナシ(前出参照)にはなるな」という親父の遺言にボクの場合、ま
ず反する。
しかし、直感的と断ったのは、ことはそう単純でもないんじゃないかとも思うから
だ。
たとえば、その”石工さん”はこのような雑誌を読むひととは限らない。
ちょっと意地悪いかもしれないが、あえて云えば、クライミング界をリードするひ
とたちが、伝統的な倫理の崩壊を嘆いた名文を書いても、それを読むひとは元々そ
れが”よく分かる”ひとばっかりだったらどうだろう。

最近クライミングに「文化」の2字をくっつけた表現をときたま目にするようにも
なった(大昔に、たしか室井さんという女性クライマーが”クライミング文化”と
書いていたことがあったが、その後はトンとご無沙汰だ)。だけど、もし本当にこ
の営為がこの国で文化として育ちつつあるのなら、それは冒険を避けたがる俗世間
のありようと融合する一面を持たなければならないのじゃないか。
ボクの持論だが、文化には耐力がいるんだ。いつまでも純粋培養って訳にもいかな
い。
クライミングが連綿と引きずってきた伝統的な倫理、つまりできる限りナチュラル
に挑む、というピューリタリズムっぽい哲学が、恐らくそれが必然的に発生した土
壌と異なったこの国で、大手を振るというのは遠いにしても、ぼちぼちでも歩き始
めているとしたら、その過渡期にはいったいどんなことが起きるだろう?

で、思い切っていっちゃうと、チッピングのどこが悪いのか? あるいは、ボルト
のランヨウ、だからどうした?っていうようなひとが現れたって一向に変じゃない
んじゃないかって思えて来たんだ。
少なくともそこまで話を振ってみないと、ことは見えて来ないような気がする。

誇張もあるが、クライミング界の誇り高い頑なな一面はアラブの砂漠社会にみたて
ることができる。少数部族化、という訳だ。
それぞれのグループが質はともあれ独自の哲学というか主義主張を持っていて、始
末が悪い。
あるいはそこが良いところかもしれない、と考えることもできる。雑誌で読んだこ
とがあるが”面白ければなんでもあり”というアタマからっぽ的(ごめんよぉ)お
おらかなひとたちもいるそうだ。これも個性なんだろう。
でもその弁でいけば、”石工さん”のチッピングが巧みで、”犠牲”ルートがそう
なる以前に比べてずっと面白くなっちゃったらどうなんだろう。
そんなことは絶対ない、っていうクライマーもいるかもしれない。
ルートには込められている意味が重要で、そのこと抜きでおもしろさは評価できな
いって。精神的なものを可愛がってるクライマーって少なくないんだ。(ボクもそ
うかもしれないんだ)

しかし、いまでは上からぶら下がってボルトを打つルート作りだって結構大勢のク
ライマーの納得を得ている。そうとばかりはいえないんじゃないか?
他人がすでに作ったルートで、しかも壁そのものに手を加えるっていうところが屈
折している。それにルートを作ったひとをバカにしている。コケにしている。ある
いは、そこに通い込んでレッド・ポイントを目標にしていたひとだって、それはな
い、なんて乱暴なって感じるだろう。
しかしそう思うのはクライミングの原理、原則を知っているからだ。ルートが誰か
によって設定され、その特定な地理空間が所有されることはないにしても概念とし
てのルートにはある種の持ち主がいることを知っているからだ、と思う。
誰だったか「知らないモノは愛しようがない」って云ったひとがいる。

”石工さん”がクライミングの伝統的な原理、原則に全く関心のないひとだったら
どうだろう。あるいは、彼(女)はルートに”持ち主”がいるなんて思ってもいな
いかもしれない。彼(女)はひたすらルートを”面白く”することだけにある種の
意義と喜びを見いだしているのだとしたらどうか?
試しにクライミングは知っていてもやったことのない友だちに聞いてみると良い。
ほとんどのひとはルートは自然にそこにあって、それが誰か特定なひとと結び・tい
ているなんて知らない筈だ。
”石工さん”はクライミングがそれなりに長い時間をかけて独自な世界を作り、い
まに至っていることを知らないのかもしれないのだ。

ボクにはそのような”石工さん”にどう答えれば良いのか分からない。腹の底では
XXナシだって思っても、云えない。方法を問わないプリ・ボルトのルート作りが
今では当たり前だからだ。じゃまで見栄えの悪いブッシュやコケを落としたり都合
の悪いフレークをはがすことも、「ルート開拓」という錦の旗のもとではそううし
ろめたい思いもせずに行われている。かくして、それを受け入れたときに、ボクた
ちは”契約書”に書かれたいくつかの譲与条件を見過ごしてしまったのかもしれな
いのだ。そういうことが”石工さん”の出現にどこかで影響しているとボクは思う
。

いまや”ウラから廻れる”岩壁で、しかも一定水準以上の強度がありさえすれば、
質はともあれルートなんて誰にでも引けるといっても言い過ぎにならない(その証
拠にボクだって作ってしまった、むはは)。
従って、チッピングや低品質のルートも含めて、件のランヨウも自然発生する。し
かし、ランヨウの基準ってなんだろう。

身近な例で話そう。
ドンクサ・オヤジ仲間の一人がいつだったか、小川で名うての三ツ星ルートで、や
ばい落ち方をしたことがある。上部の外傾したテラスからフレアーした浅いクラッ
クを6m登って終了点なのだが、このクラックにカムは決まらない。押し込めば見
た目にはセットされても一人分の静荷重にも耐えられそうにない。
ルート設定者のコメントはこうだ。決まっているかどうか確信のもてないプロテク
ションでここを抜けるのがポイントである...云々。

仲間は、図らずもこのコメントに込められている負の意味を証明してみせることに
なった。突っ込んで、落ち、セットした2つのカムはこともなげに外れたのだ。テ
ラスの水平クラックに決めたキャメロットでグランドまで飛ばされはしなかったが
、そのテラスにぶちあたるように、彼は落ちた。幸い無傷だったが、ビレイしてい
たボクにはただ運が良かっただけにしか見えなかった。
このルートはグランド・アップの鉄人ルートに見えるが、じつはトップダウンで作
られたものだ。従って、このクラック以外の部分にはペッツルのハンガーが燦然と
配置されている。

このケースでいえば、ボクたちはそこに表れる課題が自然なものかどうかには関心
がなかった、ということだ。
たぶんボクたちだけではないだろう。クライマーの多くはありのままを受け入れる
ことをフェアーだと思っている。しかしありのままという意味は手を加えない自然
の状態という意味では、当然ない。それはすでにそこをモノしたクライマーからの
、目に見えない脅迫のようなものなのだ。
帰り道でボクたちは、あそこにボルト1本打っちぁおうかとか、大勢の意見聞いた
方がいいんじゃないかなどと、ボソボソ話したりもした。でも打ち足せば、負けだ
し、ランヨウって叩かれるんだろうな、たぶん。そう、ランヨウの登場。

以前クロニクルに載ったアルパインのレポートに次のような意味のコメントがあっ
た。
「途中のテラスにはビレイ用に最小限のボルトを残したが、この上で前進のために
ボルトを必要とするひとはこのルートを登る資格がない」
ビレイ用だろうが前進用だろうが、ボルトを打ったことには変わりはないのだから
、このルートもすでに”ありのままの自然”という訳ではない。
にも拘わらず、このコメントを発したクライマーは明示的に追従するクライマーを
脅し、ボルトの打ち足しに釘を刺している訳だ。
こういった局面では、クライマーは自然から与えられた課題を心・技・体を駆使し
て乗り越えていくという良く聞く話は、意味の希薄な美辞麗句にすぎない。事実は
単純なマッチョ比べにつきるのではないかという気がする。

また、日本のトップクラスのひとりと目されるあるクライマーが、雑誌のインタビ
ューで、ソロで登れちゃったらそのルートに残されているプロテクションは全部と
っちゃった方がいいみたいに答えている。
この云いっぷりもクライマーの心理をくすぐるレトリックだろう。つまり、残置さ
れたプロテクションを廃棄すればルートは”自然に帰る”という訳だ。実際、”自
然に帰る”、この一言にクライマーは弱い。(ボクもシビレタ)
しかし、ここにはそうすることで自らが次のクライマーにとっての目標になるとい
うナルシシズムっぽい願望があると思う。

さて、もう少しはっきりさせておこう。
ランヨウの真打ちはクラックでパッシブなプロテクションが確実にとれる状況にも
拘わらずボルトを設定してしまうケースだろう。しかし、ちゃんと調べた訳ではな
いので決めつけるようなことは云えないが、実際にランヨウと考えられている最も
多いケースは打ち足しじゃないか。
だが、それがマッチョ比・ラの敗北を意味するケースは実際にはものすごく少ないと
思う。なぜなら、ボクたちの体験から述べたように、ほとんどのクライマーは、そ
れが自然であるかどうかに拘わらず、いまそこにあるあるがままを受け入れること
が当面克服すべき課題だと感じる習性があるからだ。
従って、打ち足しはふつうもっと別な理由で行われるのではないか。
たとえば、同行している”若葉マーク”へのボランティア。講習。エイドの練習ル
ート化。なかには変質的な恨み辛み。
う~ん、ドンクサ・オヤジのボクでもこらこらって云いたくなるようなことばかり
ではある。従来からチッピングだってこういう不純?な理由で行われている可能性
はあった。
ま、しかし、自由社会にはいろいろあって、ぐじゃぐじゃしながら成長していくん
だな、ってとこで我慢するしかないだろう。

一方、打ち足される以前のランヨウだってある。リハーサルを繰り返して設定され
るルートでは多かれ少なかれボルトの問題は避けて通れない。
発表されたがいつになっても星が付かなかったり、場合によってはX(ペケ)マー
クとなってしまった低品質のルートでは、ことにボルトの位置や存在そのものが問
題になったりもする。なかにはフレンズの使えるクラックの横にボルトを打った”
ランヨウ見本”みたいなルートさえ出現する。ライン取りは無論、それに付随する
ボルトの配置はルートの合理性を決定する重要な要素だ。一口に良くセンスと云わ
れるが、それは設定したクライマーの想像力が深く関与している。チッピングや打
ち足し(不純でない方だが)にも根幹にこの想像力の問題が絡んでいると思う。想
像力には、生まれつきのものからそのひとが現在どのレベルにいるのかという自覚
やそのときの取り組み方、心のありよう、思いやりまで数多の要素が関係していて
複雑だ。
たとえば、小川山の超3つ星「小川山ストーリー(5.9)」はムーブやスケール
の面白さに加えてボルトの配置が的確だと云うクライマーは多い。しかし、ボルト
の間隔は長く5.9を目標としているレベルのクライマーには実際ものすごいプレ
ッシャーがあると思う。誰かが、このルートは5.11を登るひとの5.9だと云
っていたことがあったが、それも一面頷ける。
ルート開拓者は、はじめにボルトの配置をどういう基準で思い描くのだろうか。

クライマーは、自分にとって難しい地点にさしかかったとき、そこで落ちればどう
なるかということを思い浮かべると思う。下のダイクにぶつかるかもしれないし、
グランドフォールするかもしれない。あるいは擦り傷くらいはあってもただぶら下
がるだけで済むこともあると。想像力の豊かというかいくぶん悲観的で背負ってい
るしがらみが重いひとなら、そこからさらに深追いして、足が折れたら、納期の迫
ってる仕事がやばいぞとか、頭でも打ったら、かあちゃんに当分働いてもらわない
とならないな、なんてことまで考えるかもしれない。当然こういう精神的な状況は
ひとり一人異なっている訳だ。従って、プロテクションを必要とする位置はひとに
よっても異なって当然だろう。

しかし、一方、ルート開拓者はかく宣う。ルートは登りたいから作る、人のためじ
ゃない、自分のために作るんだ。
でも理由なんて問題じゃない。良く「ひとに登ってもらいたいために作るなんてナ
ンセンス」って話を聞くけど、批難するほどのこととは思えない。開拓を芸術と同
義にしてみたってたいした意味はないだろう。しかし、作る以上それは真っ白な紙
からスタートする訳だ。そこに開拓者は作ること自体の愉しみや審美的な追求、さ
らに他人に評価される喜びをも込める。開拓者がいっとき自分から離れて、そこに
挑むクライマーの数多のレベルになりきってみたって不思議じゃない。むしろ良い
開拓者は自然にそういうことをしているんじゃないかと思う。
「小川山ストーリー」が不動の人気を保っているのはなぜだろう。ボルトの間隔は
遠くても次のクリップまでがんばってみようと感じさせる何かがあるんだ、といっ
たひとがいる。つまり、たとえ怖くてもそこにあるあるがままを受け入れなければ
ならないと”自然に感じさせる”ルートなのだ。

長女が小学生のとき、担任の先生が夏休みにクライミングをしてみた彼女に「怖い
ことって面白いんだよねぇ」っていったことがある。まさに。
クライマーに限らないが、誰にでも一応身を守る権利はある、...と思う。
しかし、守りすぎちゃうと、そこにある愉しみをも失ってしまうかもしれないのだ
。じつに困った遊びだ。

がらっと調子が変わりますが、そこでみなさん、クロニクルではハードにカッコ良
く決めたい気持ちは分かります。でも、美辞麗句は、ま、ひとまず棚上げにして、
なるべくナチュラルってことでどうでしょう。マッチョ比べは当然といえば当然な
んでしょうね。最前線は勿論、どのレベルも結局はそれで引・ォ上げられていくんで
しょうから。それを「自慢オヤジ&オバビの法則」と云います。
冗談はさておき、訳知りってこともないですが、実際みなさんそれほど手はきれい
じゃないでしょう? うっ、きれいだって思ってんですね...ま、どっちでも、
不純な理由で掘ったり削ったり、打ち足したりっていうのを目の当たりにしても、
目が点なんて現象はぐっとこらえて、こらこらって云えたらいいっす。もちろんそ
んなことの当事者はこれ読んでいるひとにはいないでしょ。(万が一いたら、そん
なこと、やめ・よぉ・よぉ)
あとは、ま、自己規範の問題ではないでしょうか、ってとこでおしまい。
ま、ドンクサ・オヤジの戯言です。
ーーーーーおしまい・1999/2/24記ーーーーーー



  

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