CONQUER YOU FEAR

オオ、コエーに克つ精神療法 


カルロス永岡
 

クライミングはメンタルゲームだ。2,3メートルのボルダープロブレムでさえ、ランディングが悪けれ
ばかなりの集中力が必要とされる。ましては高度感たっぷりのスポーツルートや、不安定なナチュプロ
ルートのリードではなおさらだ。どうやって墜落の恐怖を克服するかは、いかにうまく登れるか、いか
にクライミングを楽しめるかを決定してしまう。
 以前、ロクスノの増刊号でも「おお、コエーに克つ」と題して墜落恐怖の研究をしたことがある。墜落
 に恐怖を感じるのは人間にとってごく自然なことで、スポーツ心理学を利用したメンタル・トレーニン
 グでその恐怖心を克服する方法が紹介された。メンタル・トレーニングはスポーツ医学の分野でいうエ
 ルゴジェニック・エイド(Ergogenic Aids=作業補助)の心理学的エルゴジェニック・エイドに属する
 テクニックのひとつだ。
 エルゴジェニック・エイドとは、運動のための生理機能を引上げたり、その妨げとなる心理的抑制を取
 り除いたりする身体トレーニング以外の技術や物質のことをいう。興奮剤やステロイド剤などの薬品類
 、栄養補助食品や酸素などのサプリメント類はその典型だ。心理学から派生したエルゴジェニック・エ
 イドとしてのメンタル・トレーニングは、スポーツの分野ではすでに実践的な技術として確立されてい
 て、催眠療法、リハーサル・ストラテジー(イメージイング)、ストレス・マネージメント(リラクゼ
 ーション)などは、ロクスノで紹介された哲学的訓練、イメージ・トレーニング、自律訓練法などと同
 様のテクニックになる。

 目標設定
墜落の恐怖心を取り除き、クライミングが上達するための心理学的エルゴジェニック・エイドのさらに
具体的な方法として「目標設定」技術の応用が考えられる。前回取上げられたイメージ・トレーニング
の中にも目標を持つことの重要性が指摘されていたが、ここでは登るための手段として効果的な目標設
定の方法を取上げてみたい。クライミングの部分部分にはっきりとした目標を設けて、それに集中する
ことによって墜落の恐怖を考えないようにするテクニックだ。Rock & Ice誌の93号にも紹介された技術
で、クライミングのための使える心理学的エルゴジェニック・エイドの方法といえる。
 まず、目標を設定する時に最も注意しなければならないことは、その目標が必ず達成可能でなければな
 らないということだ。例えば「登れないルートの完登」そのものを目標にするのではなく、「登れる3
 本目のボルトまで自然な呼吸を保つ」などとすることだ。ボルト3本目までは必ずのぼれるのだから、
 自然な呼吸をすることだけに専念すればよい。目標が具体的で、達成される可能性が高い。
 次に、目標はその進み具合や成り行きが分かりやすいものでなければならない。「とにかく登れるとこ
 ろまでは落ち着いて登る」などは目標がどこまで達成されたのか分かりにくい。「落ち着いて登ること
 」の意味がはっきりしていないし、どこまでが「登れるところ」なのかも良く分からない。反対に「ど
 こに足を置くか集中している時でも、ルート全体にわたって自然な呼吸を続ける」などは具体的な目標
 の良い例だ。効果的な目標とは達成しようとしている物事に対しての集中力を導くものでなければなら
 ない。

 してはならない、はだめ
一方、あまり効果的でない目標設定の方法として、実行しなければならない目標のかわりに、してはな
らないというネガティヴな目標をかかげることだ。例としては「このルートでは絶対にビビらないよう
にする」などがあげられる。このような目標設定による結末は成功か失敗しかなく、ちょっとした恐怖
心がちらついただけでも失敗したことになってしまう。
 「目標設定」では結果を目標にすることよりも、過程を目標にしたほうがより効果的だ。上記の「登れ
 ないルートの完登」という目標は結果のための目標で、達成が難しいばかりではなく完登するためのプ
 ロセスが無視されている。初めに「3本目のボルトのクリップ成功する」、次に「核心部のガバにどう
 にか触れる」などのようにひとつひとつの過程を目標として進み、その結果として登りきってしまった
 というパターンが望ましい。設定した目標を次々と達成していくことによってモチベーションを引き上
 げて行くことが大切だ。
 忘れてはならないのは、目標に集中することによって、墜落の恐怖を考えないようにすることがここで
 の目的であることだ。恐怖心を克服することが直接の目的ではない。結果として墜落の恐怖は感じなか
 ったという状況をつくりだすことが重要だ。そのためにも必ず集中することのできる現実的で具体的な
 目標を設定しなければならない。 
 具体的な方法
Rock & Ice誌では墜落恐怖を忘れ去るための実践的な技術や考え方として、1.呼吸をすること、2.墜落
を試すのはあまり効果的でないこと、3.現実的な目標を設定すること、4.ゆっくりと確実な進歩を目指
すこと、の4点をあげている。 
 呼吸については、クライミング中にごく普通の規則正しい呼吸をすることがいかに難しいかに触れ、落
 ち着いた呼吸ができるように訓練することでクライミングが驚くほど上達すると述べている。ここでは
 特別な呼吸方法の習得を目指しているのではなく、クライミング準備の段階からクライミング中まで自
 然に呼吸できるように心がけることが重要だとしている。
 「ルート全体を通して自然な呼吸ができるようにする」という目標の達成にはかなりの集中力が必要な
 ので、それだけで墜落に恐怖を覚える暇がなくなるということだ。呼吸を意識するきっかけをあらかじ
 め決めておいたり、例えば、クリップしたら落ち着いて深呼吸するとか。また、クライミング中にパー
 トナーからしつこく注意を促がしてもらうのもこの目標の達成には有効だ。
 また、墜落を試してみるのがあまり効果的でないのは、ぎりぎりまで頑張ろうとする意欲を失ってしま
 うからだという。いちどもトップ落ちをしたことのないクライマーにとっては、安全な状況でフォール
 を経験するのは確かに大切なことかもしれない。しかし、クライミングは登るためのスポーツで落ちる
 ためのゲームではない。困難なムーブに直面している時に落ち癖がついては問題の解決にはならない。
 安直なフォールを繰り返していたら、何が何でもホールドにしがみついて絶対に登るぞという気構えを
 なくしてしまう。すぐにだめだと諦めてしまう悪い癖がついてクライミングが向上しないのだ。ここで
 は墜落によって墜落の恐怖心を取り除いても意味がないという考え方を主張している。
 
 ボルトが腰の位置に
現実的な目標設定の例としては、すぐにでも使えそうな例をあげて解説していたので、そのまま次のク
ライミングで試してみるとおもしろそうだ。ここでは結果ではなく過程を目標とした良い例として、「
最後のボルトが腰の位置あたりに来るまでは呼吸とムーブだけに集中する」をあげている。最後にクリ
ップしたボルトの位置が腰の位置を過ぎたら後は何でもOK。ただし、それまでは呼吸とムーブのみに完
璧に集中するという目標だ。
 この目標はクライミングそのものを成功させるための目標ではなく、腰の位置がボルトのところへ来る
 まで何が重要なのかに集中するための目標だ。この目標が達成されるにはかなりの集中力が必要だし、
 そのために墜落の恐怖を感じる暇がなくなる。たとえ部分的な目標でもひとたびそれが達成されれば、
 クライミングにかなりの進歩があったことになる。
 また、ここでは非現実的で好ましくない目標の例もあげている。リードするのがいつでも怖い状態であ
 りながら「絶対にリードを怖がらないようにする」などという目標をかかげることだ。このように急速
 な進歩を目指す目標設定では、成功か失敗かどちらかの結果しか得られず、上達のほどがよくわからな
 いからだ。最後に、ゆっくりと確実な進歩を目指すことについては、上記の「最後のボルトが腰の位置
 あたりに来るまでは呼吸とムーブだけに集中する」という目標をさらに発展させて説明している。腰の
 位置まで完璧に集中することに成功できたら、次は膝の位置、その次は足首までと、段階的に目標を高
 めて行くことが最終的な結果を得るための近道になるというわけだ。もちろん、それが少し難しいよう
 だったらもっと易しい目標でもかまわない。いきなり「ルート全体を通して自然な呼吸ができるように
 する」などという目標を設けてもなかなか実現は難しいものだ。
 
 観察と研究に専心
以上のような目標が達成されて呼吸やムーブなどに集中することができても、目指すルートが登れない
ことも多い。そういう場合はもっと直面している課題を次の目標にかかげると良い。例えば、右手で取
らなければならないホールドがどうしても左手になってしまうとしよう。まず、右手で取るためのムー
ブの流れをよく観察して、何が妨げになっているのかを見きわめる。原因が解明したら、それを解決す
るための手段に徹底的に集中する。そうすることによって「上に見えているホールドは以外と悪いんじ
ゃないか」とか、「次のクリップに失敗したらどうしよう」とかいう墜落の恐怖を誘発するような不安
材料が心に浮かばないようにするのだ。
 
エルゴジェニック・エイドはあくまでもエイドであり作業補助だ。良く考えられて、まとめあげられた
トレーニング計画に汗を流すこと以外にスポーツの上達の早道はない。心理学的エルゴジェニック・エ
イドのテクニックも広く普及しているのにもかかわらず、その効果のほどは今だはっきりと証明されて
いない。それは心理学が人間の行動や意識を研究する学問で、学問としての歴史そのものがまだ浅いこ
となどにも原因している。テクニック自体もかなり抽象的な側面があり、そのためメンタル・トレーニ
ングなどは、まったく無視して練習や競技にのぞむアスリートも少なくない。
 それでもオリンピックや世界選手権のような微妙な違いで勝敗が決まる極限の競技や、クライミングの
 ようにメンタルな部分がかなりの割合で影響するスポーツでは、どう精神をコントロールしていくかが
 成功の鍵になる。落ちるかもしれないという恐怖は精神作用なのだから、精神療法で克服するしかない
 。設定した目標に徹底的に集中し、墜落の恐怖を忘れ去るテクニックは、いつまでも足踏み状態のクラ
 イマーにとって効果的な心理学的エルゴジェニック・エイドになる。

 

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