ヨセミテ・エルキャプタンを3本
. yosemiteだい
98年秋、日本を出発する直前になってSAC(仙台アルパインクラブ)の志小田さんと電 話で話し、一緒に“Jolly Roger”を登ることが決まった。これに佳奈ちゃんこと大村佳奈が 加わることになった。マーセドでヨセミテ行きの最終バスに乗り、遅れた僕は1ヵ月半後、 一緒に“Wyoming Sheep Ranch”を登ることになるIan Parnellと2人でバス停前の芝生で 横になり夜を明かすことにした。久々にぐっすり眠れるはずが、まだ暗い早朝、動きはじめ たスプリンクラーのせいでズブ濡れになって起こされるはめになってしまった。 巨大な怪物のようなエル・キャピタンがバスの窓から見え始めると、何もかも忘れて大人 気なく窓ガラスにはりつき、木々の無効に見え隠れする岩壁を見上げた。 一足先に来ていた佳奈ちゃんに合流し、僕から1日遅れて志小田さんが到着した。すぐに 3人で準備を始め、9月7日からマンモステラスまでの8ピッチ分のフィックスに取りかか った。いくつかのルートが、このテラスを共有していることなどから、すでにロープが残置 されていて、僕らは自分たちのロープをほとんどフィックスすることなくマンモステラスま ではキャンプ4から通った。 この8ピッチ中で、僕にとっての核心は6ピッチ目で、振り子トラバースからノープロテ クションで15・ランナウトし、マントリングをこなさなければならなかった。ムーブは難し くないものの、遠くに見える最後のプロテクション(振り子の支点)のせいで少々躊躇して しまった。そのまま続くA4+のセクションでは、フッキングエッジが欠け、長めの墜落をし たしまった。次々と出てくるフッキングムーブのせいで、胃がキリキリと痛み始めていた。 9月13日にGo Upを決め、キャンプ4を一度は後にしたものの、11ピッチ目でいくつかのミ スが立て続けに起こり、実際のGo Upは結果的に9月17日ということになってしまった。11 ピッチ目はいろんな意味で、一番記憶にの凍るピッチになってしまった。事前からの情報で 核心のうちの1つでもあった場所を志小田さんがこなせず僕と替わり、僕は運よく手も届か ず見えないフッキングエッジにパイカの大フックをチータスティックに付けて決め、そこを 越えることができた。時間切れで翌日へ残した約10・ほどを、志小田さんがリードする際、 僕はギアを送ろうとして、コパーヘッドのぎっしりとつまった袋を落とし、次の日志小田さ んはチヅルを落とした。これらのせいで、2度も下界を往復するはめになり、2日をムダに してしまった。今でも壁にぶつかりながら落ちていく白い袋と、袋の口からパラパラとこぼ れ出るコパーヘッドが思い出される。 マンモステラスから上は傾斜も強くなり、凹角が多いせいで日陰を登ることが多く、ビレ イ中は結構寒い思いをした。 残り2つあったA5のピッチは、12ピッチ目を志小田さん、17ピッチ目を僕が担当した。 12ピッチ目で一度フォールした志小田さんは、墜落で抜けたコパーヘッドを根気良く打ち直 し、そこを越えた。17ピッチ目の僕は、なんとか落ちずに#1と#2のコパーヘッドが続く 美しいコーナーを登ることができた。ここまでくると、まだ6ピッチを残しているにもかか わらず、もうJolly Rogerを登れたような気持ちになっていた。寒くて震えながら冷え切った 缶詰を食べるのは、少々みじめでもあったけど、蛇行するマーセドリバーを見下ろし、豆粒 のようになった自動車を見るのは気分が良く、近づくエル・キャピタンの頂上と、下界で待 つビールのことを思うと幸福だった。 最後の5.9のピッチを佳奈ちゃんが登り、Jolly Rogerは終わった情報通のクライマーの話 だと僕らは通算第8登目ということだった。でも、そんなことよりも再登によってグレード ダウンしてしまう宿命のエイドルートで、残置ギアの少ないおかげで、より初登者に近い気 持ちが味わえたことが満足だった。 Jolly Rogerから下りてすぐに、今年エル・キャピタンを1本ソロしようと決めていた僕は、 他人のアドバイスもあり、ルートを“Lost in Americaに決め、準備を始めた。基部への荷上 げをし、2ピッチのフィックスの後、ピスタチオをたっぷり買い込んでGo Up。にぎやかな キャンプ4から急にルートきりになるのは、さすがに淋しくもあったけど、Go Up後に聞こ えたヨセミテを去る志小田さんからのコールや、カナダ人がずっと遠く壁の中から送ってく れる「スイヅー! コンニチワー!」のコールに励まされ調子も上がり、順調に進んだ。6 ピッチ目、5.10のランナウトが、このルートをソロする上で僕にとってに核心だった。ラン ナウト後の情報を持っていなかったせいで、僕は一通りのギアを全て持ってのぼることにし た。フラットソールに履き替え、手にたっぷりとチョークをつけ、ソロエイドからたっぷり とロープを出してから、突っ込んだ。傾斜がおち、楽になり、やっとプロテクションが取れ ると、嬉しさがこみ上げた。 ルート全体を通して、夕方4時ごろビレイ点に着くことが多く、次のピッチに手をつける には時間が足りない。まだ明るいうちにその日のクライミングを終える日が多かった。それ でも夜、腰まで寝袋に入り、ポータレッジの上から暗い空間へ向かってピスタチオの殻を投 げるのが快感だった。ルート自体は明らかにグレードダウンしていて、かつてA5だった11 ピッチ目はチキンヘッドと呼ばれる怖さに堪えられなかった再登者によって打たれたリベッ トのせいでA2ぐらいに感じた。それでも結果的に目標どおりの4ビバークで登れたことに は満足した。 Lost in America以後は、しばらく冴えない日が続いた。ヨセミテフォールのルートを、い くつかの理由で4ピッチでやめ、ハーフドームのソロを長いアプローチに堪えて荷上げした にもかかわらず、くじけてしまった。 朝の寒さを避けてカフェで昼を待つ日が続いた。 10月半ば、親しくなったイギリス人クライマーIan Parnellと、残された日数を計算し、2 人でWyoming Sheep Ranchをやることに決めた。このルートは南東壁の北米大陸型の模様 のちょうどワイオミング州のあたりを登るルートで、A5+とグレーディングされている。 取り付きで“Let's go to Wyoming!”という僕の掛け声にIanが“Holiday in Wyoming!”と 返し、僕のリードでWyoming Sheep Ranchは始まった。1ピッチ目は悪く、一度フォール。 初日、1ピッチ半ほどフィックスし、次の日昼過ぎにGo Upした。ルートは全体的にもろい、 薄いフレークへのフッキングが多く、精神的に疲れる。僕らのずっと左では“North American Wall”“El Nino”の第2登をねらって18才と19才のイギリス人ペア、LeoとPatchが登って いた。夕方になると彼らからその日の結果が報告され、こっちも気合が入った。数日後、彼 らはほぼ全ピッチオンサイトという快挙を成し遂げた。激しい雨の日には、僕らも彼らもポ ータレッジで足止めをくらい、僕はヘッドホンの音楽の向こうから聞こえるポータレッジの フライをたたく雨の音を聴いて過ごした。雨の止んだ次の日、9ピッチ目のA5を僕がリー ドし、11ピッチ目のA5+をIanが、彼の誕生日に当たるその日リードした。その夜は、チョ コレートドーナツにマッチをロウソクに見たてて立て、ビールで彼の誕生日を祝った。 ルートは後半“Sea of Dream”へ合流し、僕らは最後“El Nino”の2ピッチを登って頂 上へ抜けた。天気は完全に下り坂で、下降を始めるころには雨も本降りになり、East Ledge はちょっとした滝になっていた。水をかぶり、ホールバッグと格闘しながらラペルし、下界 へ着くとそこはハロウィンパーティーを数日後に控え、サマータイムも終わってしまってい た。キャンプ4は、シーズンオフの雰囲気が漂い始め、テントもめっきり減り、親しくなっ た日本人クライマーはみんなヨセミテを去ってしまっていた。 僕は11月1日、ヒッチハイクでヨセミテを後にし、更にあと4ヵ月間続く旅の舞台、南米 パタゴニアへ向かった。