MOUNTAINEERING AROUND THE WORLD

憧れの世界一周登山旅行

HARA NOBUYA

 

憧れの世界一周登山旅行へ出発

 世界のあちこちを、気ままにフラリと歩いてみたい。それが小さいころからの憧れだっ
た。山登りの魅力にとりつかれてからは、いつしか世界を回りながら各国の山へも登って
みたいと思うようになっていた。
 学生時代、友人たちのなかには早くもネパールやヒマラヤ登山のプランを具体化させた
いる者もいた。しかし、当時の僕は、海外登山に憧れてはいたものの“時間”と“お金”
という現実的な問題が立ちふさがっていたし、なにより海外へ飛び出していく“勇気”を
持ち合わせていなかった。だから僕にとって海外登山は、まさに遠い夢のようなものであ
った。
 ところが、ひとりの山登りを続けることによって僕なりに登山技術を学び、また山の楽
しさを知るようになってくると、「ひょっとしたら僕にも……」という気持ちが次第に芽
生えてきた。それに加え、学生のころとは異なり海外の山についての情報が巷にも溢れる
ようになっていたし、さらに“円高”のおかげで費用面での条件もだいぶ有利になってい
た。三四歳(当時)という年齢からしてみても、「体力的にも時間的にもやれるのは今し
かない」と思った。とにかく世界を見ながら各国の山に登ってみたかたのだ。
 そこでいろいろ調べてみると、タイのバンコクにある旅行代理店で一年オープンの「世
界一周旅行券」が一三万円で売られていることがわかった。「よし、なんとか行けるだろ
う」という目算がついたのは、このチケットがあったからこそである。
 プランの作成は、過去にアラスカ、ニュージーランド、オーストラリアへスキーをしに
行った経験があったため、意外と簡単だった。海外での登山やスキーのノウハウ、異邦人
を迎え入れる現地の雰囲気、出会う人たちとのコミュニケーションなどが、体験としてし
っかり身についていたからだ。
 といっても、事細かにプランを立てたわけではなく、チケットの飛行ルート--アジア
~ヨーロッパ~アメリカ~アジア--に従い、好奇心の赴くがままに世界を一周しながら
各大陸の高峰に登ってみようと考えていた程度だった。宿泊にはなるべく金をかけずに、
現地の人と仲よくなってタダで家に泊まらせてもらおうという魂胆であった。
 しかし、いざ計画を実行に移そうとなったときに、どうしても解決しなければならない
大きな問題が出てくる。言うまでもない、“仕事”と“両親”である。正直に言えば、勤
めている役所を辞めることについてはあまり迷わなかった。僕にとっては、仕事よりも自
分のやりたいことのほうが大事だったからだ。ただ、仕事を放り出してまで海外に行って
みたいという僕の気持ちを、親が理解してくれるかどうかがいちばん気がかりだった。案
の定、ある日、辞表を職場に提出したことを両親に伝えると、
「いい歳して結婚もせず、しかも勤めていた仕事を辞めて外国へ行くとは、いったいどう
いうつもりなんだ」
 と、頭から反対されてしまった。しかし、いろいろ話し合っているうちに僕の決意が固
いことを悟ってか、最後には「ま、好きなようにしろ」と折れてくれたのだった。その言
葉を聞いたときはほんとうに嬉しく、「せめて親に心配をかけるようなことだけは起こさ
ないようにしよう」と、固く心に誓ったものだった。
 そうした身辺整理や準備に追われ、出発前の時間は慌ただしく過ぎていった。装備は必
要最小限にとどめ、ツエルト、シュラフ、プラスチックブーツ、雨具、ピッケル、アイゼ
ン、コンロ、それに若干の着替えをザック一個に詰め込んだ。予算は約一〇〇万円。それ
だけで一年間を海外で過ごすつもりでいた。
 こうして成田を飛び立ったのは、一九八七年(昭和六二年)七月一四日のことである。
空港では誰の見送りも受けなかった。飛行機の座席に着いて小さな窓から外の景色を眺め
たときには、「これでようやく出発できるんだな」とホッとすると同時に、「ひょっとし
たら生きて帰ってこられないんじゃないか」という一抹の不安が胸をかすめたのであった。

モンブランのピークで海外登山の第一歩を記す

 シャモニの朝は寒い。今日は七月二九日。日本を発ってすでに二週間が過ぎた。タイの
バンコクでチケットを購入し、インド、イタリア、スイスを経由してフランスに入った。
シャモニに着いたのは一昨日で、駅前のホテルに宿泊していた。いよいよ今日からヨーロ
ッパの最高峰・モンブラン(四八〇七m)へのアタックが始まる。
 六時三〇分にバス停へ行くと、すでに一〇人ほどの登山客がバスを待っていた。みな日
本人ばかりである。ところが、お互い日本人だからという安心感から他人任せにしていた
のか、あるいはただ単にみんなが知らなかったからなのか、降りるべきバス停を乗り越し
てしまった。しょうがないので、ひとつ先のバス停から全員ゾロゾロと一〇分ほど歩いて
レ・ズーシュのロープウェイ駅へ向かった。
 終点のベルビューでロープウェイを降り、ここで登山電車に乗り換える。コトコトとゆ
っくり走る登山列車の車窓からは、花々が彩る雄大な草原が広がっていた。まるで「アル
プスの少女・ハイジ」を思い出させるような光景だ。
 終点のニ・デーグルに着くと、登山者が一斉に飛び出していく。ここの標高は二三七二
m。モンブラン山頂まで二四三五mの標高差を登り詰めていくわけだ。
 小雪渓の脇を登って無人小屋のある雪の平坦地を過ぎ、ジグザグのザレ場を岩尾根伝い
にたどっていく。登山道の道端には、日本では見られないような高山植物が美しく咲き誇
っている。雪原のなかに煙たなびくテート・ルースの小屋が現れると、その先には悪名高
きクーロワールが控えている。ここは落石の名所で、毎年、数人の登山者が落石にやられ
て命を落としているという。僕がトラバースをしようとしたときにも上部からダダダーッ
と石が落ちてきて、思わずヒヤッとした。
 スチール製のワイヤーに助けられながら駆け足で通過すると、今度は切り立った岩尾根
が待っていた。三点支持で慎重に登っていくのだが、ところどころ雪が氷化していて登り
にくい。落ちたら最後、何千mも下の谷底まで一直線だ。恐ろしくてまともに下を見られ
ないくらいである。時折、上部を登っている登山者が無意識に起こす落石が、カラカラと
不気味な音を立てる。
 グーテ小屋にはっきり人の姿が認められるようになると傾斜はいっそう強くなり、鉄製
のステップやワイヤーにすがりながらの登りとなる。この岩場を登りきれば、キラキラと
銀色に輝くジェラルミン製のグーテ小屋に到着する。
 小屋でしばらく休んでいるうちに軽い吐き気と頭痛を覚えたが、二時間後にはビールや
ワインをしこたま飲めるぐらいに回復していた。この日は天気がよかったため、小屋は今
年いちばんの大混雑とのこと。しかし、高所の山小屋にしては夕食もまあまあで、スープ
、ライス、ビーフステーキ、デザートのプリンをしっかりと平らげた。
 小屋の中はシュラフがいらないぐらい暖かくて快適だが、どこかのパーティのお喋りが
延々と続き、うるさくてなかなか寝つけない。隣に寝ていたアメリカ人の男性も迷惑を被
っていたようなので、いっしょに「ちょっと静かにしてほしい」と大声で注意すると、い
くぶん静かになった。日本の山小屋と同じで、いつまでも喋っている登山者はどこの国に
もいるものなのだなあと思った。
 翌日、夜中の一時ごろから出発準備が始まり、騒々しくてとても寝ていられない。窓の
外には星がきらめいていたが、遠くのほうでは局部的に雷がピカピカと光っている。
 朝食のメニューは、パン三切れ、バターとジャム、それに紅茶。腹に収まったのかどう
かわからないぐらいの分量だったが、この標高の小屋で食事が出てくること自体を幸せだ
と思わなければいけないのだろう。
 僕は初めての氷河歩きに自信がなかったため、他国のグループの尻について三時に小屋
を出た。日本人の数パーティは、すでにかなり先を歩いている。いつでもどこでもハリキ
ってしまうのは、やはりニッポンのお国柄なのだろうか。
 星空の下、行く手に青白く見える巨大なドーム・デュ・グーテに向かって快調に登って
いく。七〇人ほどの登山者が、ランプをチカチカさせながら行列をつくって夜の闇のなか
を歩いていく様は、なかなかロマンチックな光景だ。時折、夜空を仰ぎ見ると、小さな流
星が散発的に流れるのが見えた。
 ドーム・デュ・グーテは、近そうに見えてなかなか近づかない。四一〇〇m地点から、
頬に不吉な雪のかけらが当たるようになる。はじめは風で雪が飛ばされたのだろうと思っ
ていたが、ドーム・デュ・グーテの頭に着くころには風雪とガスで周囲がほとんど見えな
い状態になってしまった。ピークから少し下ったところでブリザードはますます激しくな
り、先行パーティも登頂を諦めてスゴスゴ引き返してきたので、僕も撤退を決める。
 夏だというのに、日本の冬山並みに変化するヨーロッパアルプスの天気に驚きを覚える
。小屋の近くまで下ってきてもブリザードはいっこうに衰えず、かなりの時間、三点支持
で耐風姿勢をとっていなければならないのにはマイッタ。
 ヘトヘトになって小屋に戻ったのが七時。今日一日は停滞なので、他の日本人パーティ
や地元のガイドらとビールを飲みながら雑談に興じる。そのうちにガイドらは、
「明日以降もずっと荒天が続くだろうから、今日のうちに下山したほうがいい」
 と言い出して、自分たちの客を連れてさっさと山を降りていってしまった。それに従う
ようにして他の登山客までもが続々と下山をはじめ、結局二〇人ほどが小屋に残ることに
なった。昨日の混雑がウソのように、小屋もようやく落ち着いた雰囲気となる。
 僕の場合、登りたい山には何日かけてでも登るつもりでいたから、迷うまでもなく小屋
に留まった。もとより急ぐ旅ではない。天気が悪ければ、回復するまで待てばいい。
 夜中の一時、どうせ今日も天気は悪いだろうと思いながらも起き出して外を見ると、予
想に反して空には星がバッチリ。今日は雷も見えない。
 例によって他のグループの尻について登りはじめ、約二時間ほどでドーム・デュ・グー
テの頭に到着。さらに上を目指し、硬い雪面にアイゼンを効かせながら慎重に登っていく
。先行のパーティはコンティニュアスで登っているが、単独の僕はピッケルとアイゼンだ
けが頼りだ。
 登るに従い、呼吸が激しくなってくる。さすがに四〇〇〇mを越えると酸素が薄くなっ
てくるのが感じられる。ボソン氷河のほうに目を向けると、登ってくる登山者が豆ツブの
ように見える。あの植村直巳が初めてピークを踏んだ海外の山もモンブランだった。彼が
頂上を目指してボソン氷河コースをたどっているときに、雪に隠れたクレバスに落ちて九
死に一生を得たという話を思い出した。
 北側からの風が強く、雪煙がシャワーのように降りかかってくる。先を鋭く尖らせたミ
ディ針峰が、太陽の光を受けて輝いている。雪の白さと対をなすスカイラインの青が、く
っきりと美しい。
 最後のハイライトであるナイフリッジは実に高度感があり、緊張を強いられる。ここを
越すと傾斜は緩やかになり、一歩一歩、足元を確かめるようにして雪稜を登り詰め、八時
ちょうど、待望のモンブラン山頂に立った。
 山頂からは、欲しいままの展望が三六〇度に広がっていた。はるか彼方の雲の上には、
一目でそれとわかるマッターホルンやグランドジョラスも顔をのぞかせている。生まれて
初めての高峰にしてはあまり苦労もせず登れが、昨日、下山していたらまず一週間は登れ
なかっただろうと思うとやはり感無量だ。ヨーロッパアルプスの眺望を楽しみながら、他
の登山者と記念撮影を交わしたりして、しばし海外初登頂の喜びにひたる。
 下山は往路を引き返した。一二時、グーテ小屋着。ほんとうなら小屋にもう一泊したか
ったのだが、下からどんどん登山者が登ってきていたので、そのまま下山する。
 モンブラン登頂後は、マッターホルンを登るつもりでいたが、今年は例年以上に雪が多
いとのこと。今シーズンは地元のガイドもまだ二人しか登っていないというので、いつの
日かまた来ることを誓い、今回は諦めることにした。そこで次の目的をキリマンジャロに
定め、ロンドン経由で一路アフリカ大陸へと向かったのである。

ぐーたらガイドに怒りが爆発したキリマンジャロ山行

 八月一八日、ひとり、ケニアからタンザニア国境へ。ナイロビの町を一歩出ると、もう
サバンナのなかだ。はちきれそうな乗客を無理やり詰め込んだ小型トラックは、限りなく
広がる真っ平な大地をひたすら走る。見渡すかぎりの地平の世界。そんな光景を眺めてい
ると、気分が妙にウキウキしてくるのは僕だけだろうか。
 タンザニアに入ると、いちだんとアフリカ色が豊かになったような気がする。道ゆく人
々の表情もケニアと比べるとより素朴で、みなたくましそうな目つきをしている。くった
くのない子供たちの笑顔にふれると、なぜかこっちまで嬉しくなってくる。日本の子供た
ちも、かつては皆、そんな表情をしていたのだろう。
 ただ、外国人の観光客と見ると、あの手この手で金を巻き上げようとする態度は気にく
わない。バスでキリマンジャロの登山口・モシへ向かうときも、最初に運賃を払ったのに「お前はまだ払っていないはずだ」とインネンをつけられた。何度も大声で「俺はもう払
ったぞ」と言うと、ようやくスゴスゴ引き下がったが、他の観光客からもこうして金をせ
びろうとしているのかと思うと不愉快になる。物価やホテルの宿泊料にしても、妙に高い
値段をふっかけてくる。だいたい僕の恰好を見れば、金を持っているかいないかわかりそ
うなものなのだが……。もっと人を見てふっかけろと言いたくなる。
 モシに着いてみると、ガイドとポーターなしではキリマンジャロに入山できないという
。僕みたいにひとりで貧乏旅行をしている者にとっては、非常に腹の立つシステムだ。仕
方ないので、いちばん安い(といっても、この国の物価からすればきわめて高い料金であ
る)YMCAのアレンジツアーに参加することにした。
 翌朝、同じツアーに参加する見ず知らずの人々が続々とYMCAに集まってきた。フラ
ンス、アメリカ、カナダ、イタリア、日本など、さまざまな国籍の隊員約二〇名から成る
国際即席登山隊のできあがりである。
 我々のガイドを務めるガリは、目が赤く血走ったウサギのような男で、ときどき不気味
な薄笑いを浮かべている。その得体の知れない雰囲気に、なにやら不安を覚える。
 一行はボロ車に乗ってモシを出発。途中、肉やバナナ、砂糖などの食料を買い出して、
登山口のマラングゲートへ向かった。ここで入山許可証をもらうのだが、そのときに入山
料として五〇mを支払わなければならない。キリマンジャロが“世界一高い山”と言われ
るゆえんである。
 登山道を取り巻く樹林帯は、さしずめアフリカのジャングルといったところで、珍しい
植物が多く、見ていて飽きない。時折、見たこともないような大型のサルの集団が頭上の
木の枝を盛んに揺らして我々を威嚇する。アフリカの大自然は見るものすべてが珍しく、
登りのつらさも忘れてしまう。
 夕闇が近づくころ、いちばん最初の小屋であるマンダラヒュッテに到着。先着パーティ
も何組か小屋に入っており、すでにコックがテキパキと夕食の準備をしている。それから
待つこと二時間以上、他のパーティはとっくに食事を済ませているというのに、ガリとき
たら、ようやく今ごろになって夕食の準備にとりかかるというありさま。あまりの遅さに
三名の日本人以外の隊員たちは腹を立て、ハンストを起こして寝入ってしまった。それで
もじっと我慢して待っているのは、日本人の民族性なのか、あるいはただ単に腹が減りす
ぎていたからなのか。ともあれようやく食事ができ上がってきたのは、他の登山者がみな
寝床についた九時半のこと。暗闇のなか、日本人三人だけでボソボソ食べる食事がうまい
わけはない。この調子で毎日やられたら暴動が起きるんじゃないかと思いながら食事を済
ませ、寝床についた。
 深夜、喉の渇きで目が覚める。水を飲もうとして外に出た瞬間、ハシゴ状の階段に足が
挟まって転倒、強烈に足を打ちつけてしまった。打撲と擦り傷ぐらいで済んだからよかっ
たようなものの、少しでも足をひねっていたら間違いなく骨折していただろう。そう思う
となんだか気分が沈んでしまい、暗闇のなかでしばらく茫然としていた。
 八月二〇日、七時半に朝食。まだ怒っているアメリカ人が食事に手をつけようとしない
ので、彼の分をもらって二食を無理やり腹に詰め込んだ。
 小屋を出て起伏の激しい樹林のなかを三〇分ほども行くと、草原が目立つようになって
くる。時折、雲の切れ間からどっしりとそそり立つ巨大なキリマンジャロが姿をのぞかせ
、ようやくアフリカの山に来たんだなあという感慨が湧いてくる。
 登るにしたがい、周辺の植物の種類は刻々と変化する。植生の垂直分布がほんとうにみ
ごとだ。上から下ってきた登山者に出会うと、お互いに「ジャンボー(こんにちわ?)」
と声をかけ合う。見知らぬ人でもあいさつを交わすという登山者のマナーは、日本でもア
フリカでも変わりがない。
 一二時、今日の宿泊地であるホロンボヒュッテに早々と到着。草地の上で横になってい
ると、大地の暖かさがひしひしと感じられる。赤道直下の太陽の光を浴びながらの昼寝は
、このうえなく気分がいい。
 しかし、せっかくの贅沢な気分も、例によってガリの手際の悪さにぶち壊されてしまう
。他のパーティのガイドはせっせと客の寝場所を確保しているというのに、我々のパーテ
ィはドゥー・イット・ユアーセルフ。夕食の準備にしても、相変わらずのノラリクラリ。
「あのねえー、もうちょっと早くしてくれないかなあ」
 最後まで我慢していた我々日本人も、耐えかねてつい語気を荒げてしまう。それでもガ
リは平然としているのだから恐れ入る。ほんとうになにを考えているのかわからない男だ。
 夜、ひとりですばらしい星空を眺めていると、フランス人の女の子がそばに寄りそって
きた。
「ねえ、南十字星はどこにあるかわかる」
「あそこに見えるのが南十字星。そのすぐ近くにあるのがケンタウルスで……」
 星のことならなんでも聞いてくれとばかりに南半球の珍しい星たちを解説してあげると
、彼女はとても喜んでくれた。頭上にはサソリ座が輝き、ミルキーウェイのなかに白い星
雲がくっきりと浮かんでいる。星空を見ながらの、二人だけのロマンチックな夜。ほのか
にあまい時間が、アフリカの大地にゆったりと流れていく。
 翌日、ヒュッテを出発するとき、ガリは「今日はのんびり行こう」と言いながら、全員
に小さなバナナ二本とオレンジを手渡してくれた。なにやら気味が悪い。
 ヒュッテからの登りは、さほどきつくない。ダラダラと続く砂地の道を歩いていると、
どこかほかの惑星にいるような錯覚を覚える。赤茶けた地肌のところどころに白い雪を乗
せた大地は、宇宙的なスケールでどこまでも果てしなく広がっている。
 はるか下方には、キボヒュッテが小さく見える。なかなか近づかないなあと思っている
うちに、気がついたら到着してしまっていた。結局、今日も早めに行動を打ち切ることに
なる。
 夜中の一二時に目が覚める。そばで寝ていたフランス人のイビキと軽い高山病のせいで
、昨夜はあまりよく眠れなかった。
 一時ごろに紅茶をつくってくれたガリが、「一〇分後に出発しよう」と言う。ところが
、一〇分たってもいっこうに出発する気配がない。とうとう堪忍袋の尾が切れた。
「もうこんなガイドとは付き合っていられない」
 と、ひとりで小屋を出て、先行するパーティの尻につく。いつもは我慢強いほうなのだ
が、一度キレると誰にも僕を止めることはできないのである。
 しかし、先頭を歩くイタリア人パーティの行程が遅いため、二〇分ほどすると我々のパ
ーティのメンバーを引き連れたガリに追いつかれてしまった。彼は僕の体にベタベタと触
りながら、さかんに「パーティのうしろにつけ」と言う。そうとう怒っているようだ。怒
っているのは僕も同じだが、ここで一悶着おこしても仕方ないと思い、ガリの顔をにらみ
つけてから指示どおりうしろについた。
 砂礫のジグザグ道は険しく、ズルズル後退してしまって非常に歩きにくい。みな、かな
り苦戦しているようだ。このあたりから不調を訴える者が現れはじめる。キリマンジャロ
へは昨年も登ったと言っていた若いフランス人は、二回嘔吐したのち、ひとりで山を下り
ていった。
 途中、落下した大岩によってできた洞窟の中で休憩をとる。防寒服を重ね着していると
いうのに、寒気が体に滲み入ってくる。水筒の水も凍るほどの寒さだ。
 洞窟を出て、大岩伝いに登っていくと、やがてギルマンズポイントに到着する。その間
にも登頂を諦める者が続出し、結局、ここまで来られたのはたったの四名だけだった。
 美しく輝いていた星もしだいに光を弱め、一つ、二つと消えていく。壮大なアフリカの
夜明けのはじまりである。彩なす光がつくりあげる空の変化は、見ていて飽きることがな
い。寒さに震えながらも、みな、じっと見入ってしまう。
 あたりもすっかり明るくなったので、ガリに「さあ、ピークに行こう」と声をかける。
ところが、返事がない。再三うながしても決して動こうとはせず、ようやく重い口を開い
たかと思うと、「ここで終わりだ」の一点張り。
 同行したスワヒリ語ペラペラの日本人が怒って
「コノヤロー、ふざけんなよ」
 と早口でまくしたてると、ガリはついに本性を現した。
「ピークへ行くなら、ひとり一〇〇シリングずつ出せ」
 今までの散々な振る舞いに閉口した我々が素直に金を出すわけがなく、即座に全員が声
をそろえて答える。
「ノー、ノー、絶対にノー」
 その、あまりの剣幕にガリも降参したのか、無表情で腰を上げると、ようやくピークへ
の道をたどりはじめたのである。
 雪稜を越え、ブルーに光をたたえるテーブル氷河を見ながら登っていくと、だんだん呼
吸が苦しくなってきた。そろそろバテてきたかなと思ったころ、大きな銅板が置かれたキ
リマンジャロのピークに到着する。
 眼下に見えるはずのアフリカの雄大な大地は、すべてを覆いつくした雲に隠されていた
。今回は山頂からの景観をいちばん期待していたのに、至極、残念。それでもピークを踏
めたことをよしとしなければならないのだろう。聞くところによれば、キリマンジャロの
登頂率は一〇~三〇mだという。実際に登ってみて、この山のむずかしさがよくわかった。
 山頂をあとに、一足先にジグザグ道を一気に駆け下る。しばらくしてヒザがガクガクし
はじめたとき、突如、後頭部に激痛が走った。明らかに高山病の症状である。最高点に立
ったときではなく、下山しているときに高山病になるというのも不思議な気がするが、お
そらく高山の影響が時間的にズレて出てきたためであろう。
 あまりの痛さに耐えきれず、途中のキボヒュッテで横になっていたら、無情にも管理人
に「出ていけ」と追い出されてしまった。しかし、途方にくれながらもフラフラ歩いてい
るうちに、いつしか頭痛も収まっていた。
 ホロンボヒュッテに到着し、ほかのメンバーが下ってくるのを待ちながら昼寝を楽しむ
。目を閉じると、脳裏に焼きついたスケールの大きなアフリカの大自然が鮮明に思い起こ
される。実に長く、そして有意義な一日であった。
 八月二三日、今日は朝からガリの機嫌がよく、ニコニコ笑顔を浮かべている。いつもは
遅い朝食も今朝は早すぎるぐらいで、不気味な感じがする。
 一二時三〇分、山麓のゲートに到着。ここでメンバー全員に登頂証明書が手渡されるの
だが、その際にガリが「なにか忘れものはないかね」を連発する。その言葉を無視し、僕
の荷物をずっと持ってくれていた専任のポーターだけにそっとチップを渡した。
 五日間をともにしたメンバーとも、ここでお別れ。また、ひとりの旅がはじまる。

アメリカからメキシコへ。オリサバ山で九死に一生を得る

 キリマンジャロ登頂を終え、ヒッチハイクでタンザニア各地の自然公園を渡り歩いたの
ち再びケニアに入り、単独でケニア山(五一九九m)の登頂を果たす。ふつうなら三~四
日はかかるらしいが、僕は九月一二、一三日の二日間で登ってしまった。
 ケニア山のピークでは、キリマンジャロでは見えなかったアフリカの大地の眺望を存分
に楽しむことができた。それにもまして、ガイドやポーターをつける必要のない山登りは
、やっぱりすがすがしくて気分がよかった。
 アフリカで二つのピークを踏破したことで、思い残すことなくロンドン経由でアメリカ
へ向かう。
 僕にとってのニューヨークは、誰がなんと言おうとジャズの街である。なにしろ、あの
有名なミルトジャクソンのライブが手を伸ばせば届きそうなところで聴けるのだからたま
らない。ニューヨークにはそうしたジャズクラブがたくさんあるし、おまけに料金も安い
。できればしばらく滞在して毎日でも通いたかったくらいだ。
 しかし、宿の治安の悪さと宿泊料の高さからあまり長居もできず、メキシコへ飛ぶこと
に決める。早速、格安航空券を求めて街を歩き回ったのだが、新聞広告を見て行ったにも
かかわらず、どこの店でも「その航空券はすでに売り切れました」と門前払い。
「こんなインチキがまかりとおるところがいかにもアメリカっぽいなあ」
 と、変な感心をしながらダウンタウンを歩いていたとき、ふと、バスで行くという手も
あるんじゃないかと気がついた。そこで調べてみると、メキシコまではバスに乗りっぱな
しで三日間かかるらしい。それでも料金は飛行機よりも格段に安いので、すぐに予約を入
れる。
 いつくもの街を通り抜けて、バスはメキシコへ向かってひた走る。窓の外に展開するア
メリカの一日を眺めつつビールを飲んでいると、ほかの乗客がなにやらうさん臭そうな顔
をしてしきりに僕のほうを振り向く。そのうちにバスが停まったかと思うと、しかめっ面
をした運転手がやってきて「バスの中ではアルコールはダメだ」と、フロントガラスに張
ってある注意書を指さして言う。ポリスに密告されていたらブタ箱行きになっていたかも
しれない。思わず冷汗が出る。
 ようやくたどり着いたメキシコ国境では、僕の荷物だけが念入りなチェックを受けた。
荷物を検査している入国係官は、小声でブツブツ何事かをつぶやいている。よく聞いてみ
ると、どうやらワイロを要求しているらしい。頭にきて、まわりに聞こえるようにわざと
彼の言葉を大声で繰り返したら、呆れた顔をしてようやく通してくれた。ところが次に待
っていたビザ係の女性も、いかにも投げやりな感じでパスポートにドンと印を押すのであ
る。せっかくの美人が台なしである。それにしても、これは大変な国に来てしまったと深
く後悔。この先制パンチを受けた僕は、首都メキシコシティへ向かうバスの中でも小さく
身を縮めていた。もっとも、メキシコ人がシビアになるのは己の仕事に対してだけで、生
活の場ではきわめて親切であることがあとになってわかるのだが……。

 メキシコシティでしばらく滞在したのち、メキシコ第二の高峰・ポポカテペトル山(五
四五二m)に登るべく、一〇月八日、バスで山麓の街のアメカメカへと向かう。このバス
を待っているときに、北米大陸貧乏旅行をしているという日本人の学生二名に出会い、い
っしょにポポカテペトル山に登りましょうということになった。
 アメカメカから、さらにタクシーで標高四〇〇〇m地点の山小屋に入る。この山小屋は
高所にあるとは思えないほど清潔で、とても気持ちがいい。おまけに熱湯は出るし、個人
用の簡易ベッドまで整っている。それでいて宿泊料はなんと一泊一六〇円。その設備のよ
さと快適さは、世界一といってもいいのではないだろうか。
 夕方から、小屋のレストランでタコスを肴に一杯やる。ビールを飲みながら古都プエブ
ラの夜景を見ていると、ここが山小屋であることをきれいさっぱりと忘れてしまう。
 翌朝、三時に起床。砂地の道を、ランプを頼りに登っていく。昨日の昼によくルートを
確認しておいたつもりなのに、いくつもの道が分岐していて非常にわかりにくい。
「おいおい、あっちの道だろう」
「いや、こっちの道が正しいルートのようだ」
 などと、三人で迷いながらとにかく高度をかせいでいく。
 夜の闇のなかに、ポポカテペトル山の氷河が白くぼんやりと浮き上がって見える。倒壊
した小屋跡を過ぎると道は極端に狭まり、最短かつ楽そうなルートを探し求めながらガレ
た斜面を登るようになる。
 やがて、雪が現れた。連れの二人は雪山が初めてらしく、だんだん遅れがちになってい
く。かなり悪戦苦闘している様子だ。僕も最初のうちはピッケルだけで登っていたが、誤
ってスリップしたら一巻の終わりだと思い、四七〇〇m地点のわずかに傾斜が緩くなった
ところで小屋で借りたアイゼンをつけることにした。ところがこのアイゼンが大昔に流行
ったようなシロモノで、どうやってみても僕の靴に合わない。しょうがないのでヒモで縛
りつけて、なんとかごまかしながら登っていくことにする。
 夜が明けてくると、はるかかなたの霞のなかに、次に登るつもりでいるオリサバ山が認
められるようになった。見えるのは山頂部だけだが、その鋭い円錐形から一目でオリサバ
山だとわかる。いっぽう、下方のメキシコシティはスモッグのなか。こうして見ると、世
界に誇るメキシコの大都市もただ汚れているだけだ。
 独特の硫黄臭が漂ってきたかと思うと、左手に大きなクレーター状の噴気孔が現れる。
その巨大な孔からは、白黄色に濁った噴煙がボコボコと断続的に吹き上がっている。後れ
ている二人をここでしばらく待っていたのだが、寒くて鼻水が出てきたので、薄情なよう
だが先に行かせてもらう。
 噴気孔の縁をぐるりと回り込むように登っていけば、そこはもうポポカテペトル山の頂
上である。意外にも、山頂には小さな無人の山小屋が建っていた。
 山頂で羽毛服にくるまってボケーッとしていると、フラフラになった二人がようやく登
ってきた。
「よう、ずいぶん遅かったじゃない」
 からかい半分に声をかけても、二人には言葉を返す余裕もない。どうやら高山病にやら
れているようだ。ならばあまりのんびりもしていられないので、彼らの息切れが収まるの
を待って頂上をあとにする。
 頂上直下の大雪原をグリセードで一気に下る気分は爽快そのもの。「今度、来る機会が
あればスキーを持ってこよう」などと考えながら、僕らは小屋をめざして雪の斜面を駆け
下りていったのである。

 メキシコに来たからには、その最高峰であるオリサバ山(五六九九m)にはぜひとも登
ってみたかった。先日、ポポカテペトル山に登ったのは、オリサバ山に登るための足慣ら
し的な意味もあったためだ。
 ポポカテペトル山からメキシコシティにもどると、僕はすぐにオリサバ山登頂の準備を
開始した。ところが、メキシコシティ中の本屋をしらみつぶしに探してみたのだが、オリ
サバ山に関する資料どころか地図さえまったく見つからない。さて、困ったものだと思案
に暮れていたとき、仲良くなったメキシコ人の男性に
「メキシコ山岳会に行けば情報が得られるんじゃない」
 とすすめられ、ある日の夜、山岳会の定例ミーティングに参加することにした。
 ビルの一室を占めるメキシコ山岳会の事務所を訪れてみると、すでに数人のメキシコ人
が集まってワイワイガヤガヤとにぎやかに話し込んでいた。部屋の壁には、一枚の大きな
山岳写真が貼ってあった。
「どこかで見たことのある山だなあ」
 と思ってぼんやり眺めているうちに、ハッと気がついた。
「ねえ、この山がどこにあるか知っている」
 そう尋ねてみても、全員、首をかしげるばかり。僕はニンマリとほくそえみ、得意にな
って言葉を続けた。
「なにを隠そう、この山こそが日本の○○山なのだよ。(以下、山の説明を入れる)」
 みな、「そうだったのか」というような表情で僕の話を聞いていたが、説明を終えると
ニコニコしながらいろいろ話しかけてきた。そんなわけで彼らとはうまくうちとけること
ができたのだが、良くも悪くもメキシコ人というの大ざっぱな性格なのか、お目当てのオ
リサバ山の情報についてはほとんど要領を得ない。唯一わかったことは、「登山口のトラ
チチュカという街でジープを借りればかなり上まで行ってくれるので楽に登れるだろう」
ということだけだった。
 それでも、メキシコ流にいけばなんとかなるだろうと思い、翌一〇月二〇日、僕はひと
りでオリサバ山へと向かったのである。
 世界一のピラミッドがあるといわれる古都プエブラでバスを乗り換え、ローカルバスに
ゆられながらトラチチュカをめざす。田舎ではバスがどこを走っているのかまったくわか
らず、どうしても不安になってしまう。しかし、同乗したメキシコ人に尋ねてみると、道
路地図の上をなぞりながら「今はこのあたりだ」と、笑顔で応えてくれる。バスの運転手
も、僕のザックを見てどこへ行くのか察したらしく、バスの終点で三〇mほど先の雑貨屋
を指さして「あの店へ行けばいい」と教えてくれた。そんな小さな親切が、ひとり旅の身
にはことのほかうれしいものだ。
 雑貨屋に入ると、その奥は大きな客室になっていた。どうやら雑貨屋と宿を兼ねて商売
をしているらしい。宿帳には、一二月から四月までのシーズン中にかなりの登山客が宿泊
していることが書き込まれているが、今の時期は訪れる人もあまりないようだ。
 自転車を借りて狭くうらさびしい街並みを一周し、レストランで夕食をとって宿へ帰る
と、髭もじゃの大男とメガネをかけた若い男が僕のところへやってきた。
「ジープの送迎と二泊の宿代を含めて八万ペソ(約七五〇〇円)だ」
 そら、おいでなすった。
「とんでもない。僕は貧乏旅行者ですから、そんな高いお金は払えません」
「いや、お金は持っているはずだ。だって日本の円高はすごいじゃないか」
 ムムッ、こちらに都合の悪いことはよく知っている。それでもねばりにねばり、「帰り
の迎えと宿泊は必要ないから三八〇〇円にしてくれ」と頼みこむと、「このハポネスは!
」といった感じでしぶしぶと諦めてくれた。アフリカでも経験していたが、とにかくこう
した金銭交渉にはうんざりである。
 翌日、無口で太った男が運転するジープに乗ってトラチチュカを出発。最後の集落であ
るヒダルゴを過ぎてノロノロと悪路を上っていくと、やがて枯れ草と砂だけの乾燥した地
形となり、標高四二〇〇mのピエドラ・グランデ(大きな岩)に到着する。ここはその名
のとおり無数の大岩が累積したところで、二つの小屋が建っている。まだ一二時をまわっ
たばかりだが、今日はここで一泊と決定。下のほうの大きな小屋は、なぜかガラスがすべ
て砕け散っていてとても泊まれそうにないので、上のカマボコ型の白い小さな小屋を今夜
のねぐらとさせてもらうことにする。ジープが入れるのはここまでで、チップを要求する
運転手に一〇〇〇ペソを与えると彼は早々に引き返していった。
 やっとひとりだけの夜を迎えられたのはいいが、高山病の影響が出てきたのか、あるい
は登頂を目前にした興奮のためか、あまりぐっすりと眠ることができなかった。夜中の二
時半ごろ、喉の渇きを覚えて起きたついでに窓から外を見てみると、霧雨がひどい。それ
でもどうせ眠れないだろうからと、意を決して出発の準備を整える。
 シュラフなど必要のない装備は小屋に置いていきたかったのだが、誰かが小屋に来て持
っていかれてしまうと困る。さりとてわざわざ担ぎ上げるのもムダな労力を使うだけなの
で、小屋の裏手の大岩の陰に隠しておいた。しかし、のちに下山してきてみると、隠した
つもりが丸見えになっていたのには驚いた。よく盗まれなかったものだと、胸をなでおろ
したものである。
 小屋を出て、ランプの明かりを頼りに登山道を登っていく。霧雨に濡れた岩肌をよく注
意して見ると、無数のひっかき傷のような筋が規則正しく平行についている。これは、そ
の昔、このあたりが氷河に覆われていたことを示すものだ。
 そんな太古の時代にあれこれ思いをめぐらしながら登っていたときに、突然、暗闇のか
なたから獣のうなり声のような不気味な低い音が断続的に響いてきた。一瞬、何事が起こ
ったのかと身構える。緊張したままあたりをうかがうと、上方に白い氷河の末端がかすか
に見えた。なるほど、僕が聞いたのは、氷河が移動するときに岩と擦れて起こるきしみ音
だったのだ。
 ホッとして再び歩きはじめる。夜空には、オリオン座の流星群がひっきりなしに降って
いた。この流星群を見るために、寝袋にくるまってよく徹夜をした高校時代を思い出す。
高山で見る流星は、スッと現れてキレよく消える。いつまで見ていても飽きることがない
、神秘的で美しい夜のドラマである。
 初めての氷河歩きの感触をアイゼンで感じながら、硬い雪面の上をガリガリと登ってい
く。いつしか霧雨もやみ、顔をのぞかせた太陽が下方の広大な雲海をうっすらとピンク色
に染める。登るにしたがい傾斜は増してくるが、確実に高度はかせいでいる。
 間もなく、頂稜部の火口の縁に到着。右手には、めざす山頂が荒々しくそびえ立ってい
る。オリサバ山は、下から見るぶんにはあまりパッとしない山に思えるが、ここから見る
火口壁や頂上付近の岩峰はなかなかのスケールだ。火口の口径はポポカテペトル山より小
さいが、深さはずっと深いようである。硫黄臭もほとんど気にならない。
 念願のオリサバ山山頂を踏んだとき、時計の針はちょうど一〇時を指してした。頂上を
吹き渡る冷たい風のなかに、下部が折れ曲がった大きな鉄の十字架が立っていた。西のほ
うには、雲に包まれつつあるポポカテペトル山が見える。ここオリサバ山も、東側から湧
き上がってくる雲にやがて覆われようとしていた。
 メキシコの最高峰を制覇した満足感を胸に、きわめてもろい岩峰を強引に下りはじめる
。ちょっと下ったところで、見たこともない美しい蝶が雪の上で何匹も羽を休めているの
を見つけた。登っているときは、頭がボーッとしていたために見落としていたのだろう。
 下部まで下ると傾斜も緩くなり、、日中の陽に照らされて雪もだいぶ軟らかくなってき
た。スキーがあれば楽しく滑降できるのだが、残念ながら今回は持ってきていない。なら
ば尻セードで滑り下りればラクで快適だろうと考えたのが大失敗だった。
「えい、やってしまえ」
 と勇ましく滑りはじめたのはいいが、ナイロン製のズボンをはいていたため、みるみる
うちに加速がついてどうにも止まらなくなってしまったのである。
 僕は恐怖で気が動転し、なんとかスピードを落とそうとアイゼンをはいているのも忘れ
てとっさに右足を雪面に食い込ませようとした。その瞬間、グキッと足首をひねったうえ
、体がポーンと空中にはね上げられて半回転し、ドサッと雪の上に叩きつけられたかと思
うと頭を下にして再び滑落していった。もはやこれまで、と覚悟したとき、ようやくスピ
ードが落ちはじめ、クレバスの割れ目の縁で間一髪、止まることができたのである。
 滑落した距離はおよそ三〇〇mほど。運よく命を落とさずにはすんだものの、ひねった
ときに鈍い音がした足首がひどく痛む。幸い骨折はまぬがれたようだが、歩いてみようと
して右足に体重をかけると激痛が全身をかけめぐる。よくて重度の捻挫、悪くすれば骨に
ヒビが入っているのはたしかなようだ。また、左手もどこかに強く打ちつけたようで、ピ
ッケルを握ろうとしてもしびれて力が入らない。
 そんな状態だからまともに歩くこともままならず、短いピッケルを杖代わりにカニの横
這いのようなスタイルでゆっくりと下っていくしかない。しかし、足のふんばりがきかず
に何度もひっくり返り、そのたびに激痛にのたうちまわり、体力も著しく消耗してしまう
。なんとか氷河の末端近くまで来ると、その一帯は融けた氷が滑滝状に流れており、たび
重なる転倒で全身がズブ濡れになってしまった。
 とにかくひたすら我慢の下山であったが、小屋までの距離がどれほど長く感じられたこ
とか。ようやく小屋にたどり着いたときには、ドッと疲れが出てきて、その場にヘナヘナ
としゃがみこんでしまった。しばらくそうしていたが、ふと我にかえってプラスチックブ
ーツを脱ごうとしたのだが、足首が痛くてなかなか脱ぐことができない。脱いでみると、
思ったとおり、右足首は無残なほどに腫れ上がっていた。
 食事を作る気力もなく、乾いた喉をジュースでうるおしただけで、早々とシュラフにも
ぐりこむ。それにしても、自分の不注意で起こしたミスがつくづく悔やまれる。世界一周
放浪の山旅などという助平根性を出したことに対してバチが当たったのだろうか。このケ
ガによって、今後に予定しているアコンカグア登山やカナダでのテレマークスキーなどの
プランがすべてダメになってしまうのか思うと、なんとも腹立たしくてなかなか寝つけな
かった。
 冷え込んだ一夜が明け、何も食べずに小屋を出る。山麓までの長い道のりのことを考え
るだけで気が重くなる。ずいぶん歩いたような気がしてして後ろを振り返ると、小屋は全
然遠ざかっておらず、ガックリくる。少しでもラクに歩ける方法をいろいろ試しながら下
りていると、道端に手頃な長さのマツの枝が落ちていた。それを杖代わりにして体重をか
けると少しはラクに歩けるようになった。
 幸い、途中で小型トラックが通りかかり、これに乗せてもらって無事トラチチュカに到
着。町のレストランで腹一杯、飯を詰め込んだあと、この日の深夜にメキシコシティの常
宿に帰り着くことができた。
 四日間の汗とほこりをシャワーで洗い流していると、苦しかったオリサバ山での出来事
が走馬燈のように思い起こされるのであった。



高山病に苦しめられたアコンカグア登山

 メキシコで出会った日本人旅行者から、「南米に入るにはグアテマラからコロンビアに
入国するのがいちばん安上がりだ」という話を聞き、グアテマラに渡る。
 余談になるが、南米に入る際には、それが南米のどこの国であろうと必ず往復チケット
を持っていないと入国を拒否されてしまう。自由気ままな旅を楽しもうとする者にとって
はとんでもない制約であるが、どんな世界にも一般制度の裏をかく抜け道というのがある
ものだ。
 僕が南米に入るときに使ったのは、グアテマラでコスタリカ経由のコロンビア領サンア
ンドレス島への往復チケットを購入し、島へ渡ったら現地の航空会社の事務所で復路のチ
ケットをコロンビア本土へのチケットと交換してもらうという裏ワザである。もっとも、
航空会社事務所の女性事務員は「なんだ、この面倒くさい東洋人は」という態度がみえみ
えで非常に応対が悪く、腹がいくつあっても足りないくらいであった。
 さて、めでたく南米の地を踏んだ僕はコロンビアの首都ボゴタから長距離バスでエクア
ドルへ入国したのだが、首都のキトに着いたところで高熱が出てダウン。体温は四〇度近
いうえ悪寒が激しく、すっかり狼狽してしまった。
 オリサバ山での捻挫もまだ完治していないというのにこのザマだ。もしかしたらマラリ
アにかかったのではないかと思って薬を通常の二倍飲んだら、なんと翌朝には目が真っ黄
色。これはまぎれもない肝炎の症状である。幸い、三日後には熱も下がったが、目の色と
食欲減退は依然直らず、仕方なくエクアドルの山歩きを断念してペルーのリマへと向かっ
た。リマには日本料理店があると聞いていたので、口慣れた日本食を食べながら体力を回
復させようと思ったわけである。
 ところが、聞いていた日本食レストランに行ってみると、そこのオヤジがひどい酒乱で
、食事をしている人の頭を平気でパカーンと殴ったりする。しかも、一カ月に二度ぐらい
の割合で食中毒患者が出るとか……。おまけに、このオヤジは兼業で宿も営んでいるのだ
が、その宿ときたらベッドはほこりだらけで虫がウヨウヨ。酔っぱらったオヤジが女性宿
泊者の体をやたらベタベタと触りまくったりと、とにかく情けないくらいにひどいところだ
った。
 こんなところにいては病弱な体はとてももたないと、ほうほうのていで逃げ出し、チリ
のサンチアゴにあるサオトメペンションに逗留することにした。ここもまた日本人旅行者
専用の宿と日本料理店を兼ねているのだが、ペルーのそれとは大違い。ワインも魚もうま
いし、カリフォリニア米も腹一杯食べられる。もっと早くここに来ていればよかったと、
後悔することしきりであった。
 あとから考えてみると、あの高熱はおそらくただの風邪だったと思う。それをマラリア
と間違えて通常の倍も薬を飲んでしまったために、薬物性の肝炎を引き起こしたのだろう
。ともあれ、サンチアゴでの療養の甲斐あってか、体調は徐々に快方へと向かっていった
のである。
 僕が療養に専念している間に、アコンカグア登頂のベストシーズンはもうすぐそこまで
きていた。その前にパタゴニアを見ておこうと思いたち、南米大陸の最南端フエゴ島から
アルゼンチンへ入る。残念ながらフィツロイ山は低く垂れ込めた雲に隠されてその姿を見
ることはできなかったが、パタゴニア特有の強い風と見渡す限りの大地に心が洗われる思
いがした。実際にパタゴニアを訪れてみると、あるがままの自然ほど平凡なものだという
ことを強く感じる。パタゴニアというのは、生きているのか死んでいるのかよくわからな
い土地なのだが、その風景が僕と一体となるような不思議な感覚は、ほかのどの地域でも
感じられない貴重な体験であった。

 涼しいサンチアゴに比べるとメンドーサはやけに暑く、アコンカグア登頂のための食料
を買い出しにいくだけでも疲れてしまう。気がついてみたらいつしか年は明け、一九八八
年(昭和六三年)を迎えていた。
 メンドーサの安そうなレストランでひとり夕食をとっているときに、隣に座った二人の
ブルガリア人登山者と仲良くなった。人なつこそうなこの二人は、ワインを次から次へと
空にしながらアコンカグアの話をいろいろと聞かせてくれた。
「俺たちは数日前に、一〇人ほどで北面のノーマルルートからアコンカグア登頂を果たし
たばかりなんだ。それでも体力があり余っているから、これから二人で南壁をアタックし
ようと思っているんだ」
 ならば途中までいっしょに行こうじゃないかと意気投合し、三人は翌一月○日の朝、バ
スに大量の食料を積み込んで登山口のインカへと向かったのである。
 インカのホテルの前にバスが着くと、羽毛服を着た日本人がベンチに座ってアコンカグ
アの本をパラパラとめくっていた。早速、情報を聞き出そうと話かけてみる。
「いえね、僕は旅行会社の登頂ツアーに参加したんですが、ベースキャンプに着く前に高
山病にかかってしまったんです。もう運動神経がすべて麻痺したような状態になっちゃっ
て、とても登頂なんてできませんでした。ヨレヨレになって帰ってくるのがやっとでした」
 これから登ろうというときにそんな話を聞くと、キリマンジャロで体験した激しい頭痛
が思い起こされて、高山病に対する恐怖感がじわじわと湧いてくる。それでなくとも、あ
のオリサバ山でのアクシデント以来、約2カ月半も山から遠ざかっているのに、果たして
登れるのだろうかとついつい心配になってしまう。
 その後、ベースキャンプまで荷物を運んでくれるムーラの値段交渉に入ったのだが、例
によってここでも法外な料金をふっかけてきた。ほかの日本人パーティが彼らの言い値に
気前よく従うのだろう、日本人はすべてカモだと思っているから始末が悪い。海外に出か
ける日本人は、もっと節度ある現地価格を認識してほしいものだとつくづく思う。結局、
二時間ほどねばって交渉したのだが、八六mまで値切ったところで根負けしてしまう。
 昼食を軽くとったのち、ブルガリアの二人とともに出発。高山植物が咲き乱れる緑の草
原を二〇分ほども歩いていくと、真正面に雄大なアコンカグアが見えてきた。
 同行のブルガリア人二人のペースは想像以上に速い。なんとか遅れまいとがんばってつ
いていったのだが、とうとう途中で諦め、先に行ってもらうことにした。
 お互いに「幸運を」と言葉をかけあい、彼らの後ろ姿を見送る。そのひとりの背中には
、本国で彼の帰りを待つ子供のおみやげにと、昨晩夜店で買ったかわいらしい人形が揺れ
ていた。その光景がなんとも言えない。ひさしぶりに男らしい後ろ姿を見たような気がし
て、ほのぼのとした気持ちになる。
 谷間につけられた細い山道を登って大雪渓にたどり着くと、僕の荷物を背負ったムーラ
とポーターたちがうしろから登ってきてアッという間に追い越していってしまった。やが
て、南壁のほうから流れ出る幅六mほどの急流の川にさしかかるが、これを渡るには二〇
〇mほど下ったところに架けられた脆そうな鉄線の橋を使うしかない。冷汗をかきながら
この橋を渡ると、またすぐに次の沢が行く手をさえぎっている。この沢は、どう見ても徒
渉する以外に手はない。意を決して素足になり、雪解けの冷たい激流のなかへ足を踏み入
れる。
「アコンカグアに登るのは簡単だが、川の徒渉は難しいぞ」
 と言っていたブルガリア人の言葉を思い出す。
 沢を渡ったところでポーターたちと落ち合うはずだったのに、彼らの姿はどこにも見当
たらない。仕方なくさらに二〇〇mほど登っていくと、僕の荷物を下ろしたポーターたち
が座り込んでいた。今日のキャンプ地はここ。テントは張らずに、シュラフにくるまり直
接地面に横になった。
 翌朝、七時半にキャンプ地を出る。高山病対策のため、極力ペースを落とそうと心掛け
るのだが、ベースキャンプに早く着きたいという一心でつい早足となってしまう。
 広い谷間に出ると、高山特有の無味乾燥した世界が広がるようになる。何度も浅い沢を
徒渉するが、昨日のような急流ではないので助かる。
 標高四二〇〇mのベースキャンプには、意外とあっけなく着いてしまった。平地を彩る
テントの数々には思わず圧倒される。その合間をさまざまな国の登山者が行き交い、各国
の言語が入り乱れるさまは、とても国際色豊かだ。大きなアルゼンチン軍のテントではビ
ールも売っているし、簡単な食事まで出してくれる。パラグライダーでみごとな空中円舞
を披露していた二人組のフランス人は、みんなの拍手喝采を浴びていた。なかなか居心地
のいい、友好的な場所である。
 ここでポーターは僕の荷物を下ろして引き返していったのだが、いざテントを張ろうと
するとなかなかいいテント場がなく、大岩の下にかろうじて体が入れるぐらいの隙間を見
つけてそこにツエルトを張る。ツエルトを使用しているのは僕だけ、ほかのパーティのテ
ントはみな立派なのでちょっと恥ずかしくなる。
 朝、窮屈な岩の下から這い出て、高度順応と足慣らしのために一〇〇〇mほど登ってみ
る。砂礫のジグザグ道はまるで富士山の上部のようだ。途中、太陽の光を浴びながら大休
止。下に見える色とりどりのテントを数えてみたら、なんと一〇〇張近くもあって驚いた。
 さらに急なガレ場を登りきり、一面に白い雪原が広がる標高五二〇〇m地点で一服して
いると、単独行のアメリカ人があとから登ってきて僕を追い越していった。すれちがいざ
ま、彼が
「こんなところでタバコをうまそうに吸っているなんてクレージーだ」
 とブツブツつぶやいたのを、僕の地獄耳はしっかりと聞いていた。よけいなお世話だ、
ほっといてくれ。
 ここではまた、アルゼンチン人のパーティがテントを設営していたので話しかけてみる
と、彼らは荷物をデポしにきただけですぐに下へ降りるとのこと。話を聞いて、つい図々
しく「このテントを一晩貸してくれないだろうか」と頼んでみたところ、これがすんなり
と「OK」。ラテン系の人たちのおおらかな性格に感謝しつつ、この日は他人のテントの
中で快適な一夜を過ごしたのであった。
 翌日も天気はよく、高山病の症状がまだ出ていないことを幸いにと、標高五九〇〇m地
点にある小屋をめざす。ところがいざ登りはじめると、呼吸が苦しくてたまらない。ただ
足を前に出すことだけを考えるのだが、ペースは昨日の半分以下となり、呼吸を整えるた
めに何度も大休止をしなければならない。結局、たった七〇〇mを登るのになんと四時間
もかかってしまった。
 五九〇〇m地点には三つの小屋が建っていたが、ひとつは完全に崩壊していたため、ま
ともに使えるのは二つの小屋だけだ。とはいえ、こんな高所に小屋があるだけでもありが
たい。中に入ると風もさえぎられ、狭いながらもなかなかの居心地である。
 ふと壁面に目をやると、植村直巳のパーティが冬季にアコンカグアを登頂したときの落
書きがあった。彼がマッキリンリーで行方不明になったという報せを聞いたときのショッ
クが、まざまざとよみがえってきた。
 もてあました時間を、小屋のまわりをブラブラしたりして過ごしていたが、しばらくす
ると突如、頭がクラクラしはじめた。とうとう高山病にかかってしまったのである。下界
ではあれほど心配していたのに、登っているうちに高山病のことなんかはケロリと忘れて
しまっていた。六〇〇〇mまでは大丈夫だろうと、タカをくくっていたのがまずかったよ
うだ。とにかく頭が痛く、体もだるい。そのまま何も食べずに寝込んでしまったが、夜中
になると呼吸困難に陥り、苦しみながら翌朝を迎えた。
 朝になっても症状はいっこうに軽くならず、とくに体の脱力感がますます著しくなって
きた。ひとり小屋で寝たきりになっていると、やってきたほかの登山者が「大丈夫か」と
声をかけてくれるのだが、かすれた声で「ありがとう」と言うのが精一杯だ。この時点で
ベースキャンプまで下っていればよかったのだが、不思議と「まだ大丈夫、なんとかなる
さ」といった気持ちがあり、ヒーヒー言いながらも小屋に居座り続けて夜を迎えてしまっ
た。
 しかし、高山病がいよいよ肺水腫にまで進行したのか、夜になると呼吸をするたびに肺
の奥からブチブチという異常音が聞こえてくるようになった。
「俺はこのまま死んでしまうのだろうか」
 ボーッとした頭で死についてかんがえながら、長くつらい夜が過ぎていく。
 とにかくここにいては症状が悪化するばかりだとようやく悟り、翌朝、残った力をふり
しぼって下山を開始する。棺桶に片足を突っ込んでいるような状態でも、だれの助けも借
りずに自力で歩けたのは幸いだった。
 ヨレヨレになりながらようやくベースキャンプにもどったとたん、倒れ込むようにして
シュラフにもぐりこむ。ところがしばらく休養すると、さきほどまでの苦しみがウソのよ
うに解消し、ビールが飲めるくらいにまで回復してしまった。と同時に、再び登頂への意
欲が湧いてくる。
 それにしても危ないところだった。高山病の特効薬は高度を下げることだと身をもって
体験できたのはいいが、もう一日早く下っていればあれほど苦しむこともなかっただろう
。ヘタをすれば死んでいたかもしれない。己の判断のアマさをサル並みに反省する。
 体調は一晩ですっかり回復し、一気に五九〇〇mの小屋まで上がる。ところが、前日に
小屋に残しておいた貴重な食料がなくなっていた。日本の山小屋のつもりで、天井からぶ
ら下げておいたのが悪かったようだ。まったく、失敗の連続である。
 幸い、隣の小屋にいたアメリカ人パーティに事情を説明すると、同情してくれたのか気
前よく高価なインスタント食品を分けてくれた。山男の友情は万国共通、ありがたくて涙
が出そうになる。
 翌一五日、いよいよアタックを決行。四時に起床し、夜明けを待ちかねて小屋を出発す
る。一定のリズムを保ちながら吹きすさぶ寒風と乾燥した薄い空気で、徐々に体の芯まで
冷えてくる。仰ぎ見る山肌は、過酷な自然によってボロボロに風化している。乱雑に積み
上げられた大きな岩屑の塊、それがアコンカグアという山だ。
 奇妙な形をした三〇mほどの岩峰の下をトラバースし、大きなガレ場に入る。ここが最
後の難所として有名な、「二歩登っては一歩ズリ落ちる」と言われるアリ地獄状の場所で
ある。苦労してこのガレ場を登っていると、僕の先を歩いていたアメリカ人パーティが突
如、方向転換をして下りはじめた。パーティのなかでいちばん体格のいい者が、両側から
仲間に体を支えられている。小刻みに体を震わせている様子から、おそらく突発的な高山
病にかかってしまったのだろう。
 彼らが下っていくとあたりは静けさをとりもどし、ひとりぼっちの登高となる。気力だ
けは全開のつもりなのだが、足は限界に近づいているようでなかなか思うように動いてく
れない。体も重いし、背負っている小さなザックが何十キロもの重さに感じる。歩くスピー
ドがしだいに落ちていくことがはっきりとわかる。
 ようやく南峰と北峰のコルに到達。北面は比較的おだやかな斜面が続いているのに、南
面は垂直に近い巨大な壁となっていてのぞき込むと背筋に冷たいものが走る。
 頂上に近いことはたしかなのだが、この岩稜がいったいどこで終わっているのか皆目見
当もつかない。あとどれだけ歩けば着くのだろうかと考えながら、南側に落ちないように
新雪の上のノロノロと登っていく。
 登っては休み、休んでは登ることをどれぐらい繰り返しただろうか、ついに誰もいない
アコンカグアの山頂に立つことができた。わずかに傾斜いた頂はかなり広く、その北側に
標識た立っていた。ようやく登れたかと思うと、体の力が急に抜けてくる。
 重厚な静寂が身を包むなか、見渡せば広漠たる大海原の荒波のような山々が延々と続き
、地球が丸かったことを改めて実感する。中南米に来て以来、自分の不注意で起こしたア
クシデントが連続して少々落ち込んでいたのだが、これでなんとか闘志も湧いてきた。心
機一転、次の目的地である北米へも勇んで行けることだろう。
 山頂をあとに下山を開始。アリ地獄のような難所を通過し、なにもかもが死に絶えたよ
うな地形をひとり歩いていると、ホッとした気持ちがだんだんと登頂できた喜びに変わっ
ていく。
「よう、ずいぶん遅かったな。頂上には登れたのかい」
 無事、小屋にもどると、例のアメリカ人パーティが僕のことを心配して待っていてくれ
た。
「もちろん」
 そう言葉を返すと、彼らはわがことのように僕の成功を喜んでくれた。高山病にかかっ
たあの大男も、素直に僕を祝福してくれる。そのうえ夕食までごちそうになり、ただただ
感謝感激。アメリカ人のいい一面に触れたような気がして、大いにうれしくなった。
 長かったアコンカグア登山は、さまざまな人々の助けを借りて成功へと導かれた。僕ひ
とりの力では、とても登れなかっただろう。ただ、高山病のことを考えると、これ以上高
い山へは登れないだろうと思う。六九五九m、それが僕の高度の限界だ。
 翌日、下山する足取りは極めて軽い。振り返ると、紺碧の空の下、アコンカグアが初め
てニッコリと笑ってくれた。

アメリカとカナダでスキー三昧の日々

 アコンカグア登頂後、サンチアゴでしばらく体を安めてからボリビアへ。さらにブラジ
ルのマナウス、ベネズエラのカラカスを経由してアメリカのマイアミへ飛ぶ。空港からグ
レイハウンドバスのターミナルへ行き、数あるバスのダイヤを眺めながら「さて、これか
らどこへ行こうか」と散々考えたあげく、ロサンゼルス、サンフランシスコを経てシアト
ルまで行くバスのチケットを購入する。
 長大なアメリカ大陸をバスで横断する旅は、移り変わる景色と乗り降りする人々の人間
模様を目の当たりにすることができ、決して飽きることがない。
 バスがサンフランシスコに着くとすぐにもよりのアウトドアショップに出かけ、中古の
テレマークスキー用具一式を買い求めた。ようやくスキーで遊べるのか思うと矢も楯もた
まらず、ここで寄り道をしてレイクタホへ足を伸ばすことにする。
 その途中、サクラメントでのバスの休憩時間中にまたまたアクシデントが発生。バス停
にあったショップでハンバーガーを注文していたときに、なんと僕を置き去りにしてバス
が発車してしまったのである。
「アーッ、こらおい、待て」
 と慌ててバスを追ったのだが、追いつくはずがない。ちょうどそのときにパトカーが通
りかかったので手を振って停車させ、
「うっかりしていてバスに置いていかれてしまったんです。お願いですから終点のバス停
まで連れていって下さい」
 と言うと、ポリスはあきれた顔をしながらもバス停まで送ってくれて、なんとか事なき
をえた。今まで何度もヒッチハイクをしてきたが、パトカーを止めて乗せてもらったのは
このときが初めてであった。
 バス停には僕の荷物とスキー板が無事、保管されていた。ここからタクシーに乗り継い
でノーススタースキー場へと向かう。スキー場ではさっそく持ち前の厚かましさを発揮し
、すぐに現地のスキーインストラクターと仲良くなった。
「よし、お前は今日から俺の家に泊まれ」
 そのひとことで、めでたく僕は居候の身。以後、レイクタホに滞在した二週間はずっと
彼の家で寝泊まりしたのであった。
 レイクタホ滞在中、地元のテレマーカーとレースに出場したりツアーに出かけたり、あ
るいはマス釣りに行ったりと、僕は毎日のように遊びまわっていた。さまざまなアウトド
アスポーツが楽しめるこのエリアは、遊びに事欠くということがなく、地元に住んでいる
人たちをほんとうにうらやましく思う。親しくなったテレマーカーたちも、みなナイスガ
イばかり。なにをするにも気負ってしまう日本人とは違って、のびのびと気楽に楽しんで
いる様子がなにより気に入ってしまった。
 久々にスキーをエンジョイした二週間はまたたく間に過ぎ、よき友人たちと再会を約束
してレイクタホをあとにする。さあ、いよいよカナダ入りである。サンフランシスコから
再びグレイハウンドバスに乗り、未知の山々に思いをめぐらしながらバンクーバーへ。さ
らにロッキー山脈を越えて一路バンフをめざす。

 バンフでしばらくブラブラして過ごしたのち、カルガリーを経てレスブリッジという街
に入った。この街にはメキシコで知り合った友だちがいた。
「カナダへ来たら、ぜひ俺の家に寄ってくれよな」
 律儀な僕は、その言葉どおり彼を家を訪ねていったのである。ひさしぶりに再会した彼
は快く僕を迎え入れてくれた。ここでもまた図々しく居候をきめこむ。
 三月一三日、僕は、友人から紹介されて仲良くなったスキー仲間七人ともに、モナシー
山系の主峰・ブランケット山へ向かった。初めてカナダの山の頂を踏めるのかと思うと、
期待で胸がワクワクとときめく。
 昨日、僕らはヘリコプターをチャーターして針葉樹の原生林に囲まれた小さな湖畔の山
小屋に入った。この小屋を基点に、周辺のフィールドをめいっぱい滑りまくろうという魂
胆である。期間は九日間を予定しているから、遊ぶ時間は存分にある。
 小屋を出発して森林限界を抜け、国境稜線から派生する支尾根に出ると、急に風が強く
なった。いったん下ってから、頂まで続いている大氷河を各自が好き勝手に登っていく。
キュッ、キュッと鳴るシールの音が小気味いい。ノラリクラリと登る僕らを尻目に、元気
のいい者は先行したかと思うとすぐに華麗なテレマークターンで雪面にシュプールを刻み
はじめる。
 やがて、頂上直下に到達。ここにスキーをデポして雪壁を這い上がると、そこにはダイ
ナミックなカナディアンロッキーの景観が開けていた。地平線のかなたまで広がる峰々を
眺めながら写真を撮ったりしてみんなではしゃぎまわっていると、僕もカナダ人になった
ような気がしてくる。
 山頂からスキーをデポした地点までもどったら、お待ちかねのスキー滑降だ。僕はクラ
ストした斜面で得意のジャンプターンをキメ、鼻高々。みんなも陽気なジョークを交わし
ながら自慢のウデを披露しあい、夕日がブランケット山を赤く染めるまで滑りを楽しんだ
のであった。
 翌日からは、パウダースノーを滑りたいというみんなと別行動をとり、一日一山を目標
に周辺の山々へひとりスキー登山に出かける毎日を送る。そのほとんどは登る人もめった
にない無名峰だったので、“ハラ”“ノブヤ”“マサヤ”などと、自分や兄弟の名前を勝
手につけさせてもらった。名もない山に僕の名前を冠するというのは、なかなか気分のい
いものである。
 一日たっぷり遊んで小屋にもどると、ビールと夕食が待っている。夕食をつくる当番は
みんなで交代して受け持ったが、すでに自宅でつくってきたものを温めたりするだけだか
ら簡単だ。といっても、僕以外の仲間はみんな体が大きく、食事の量もハンパではない。
そのうえ、食後のデザートとして大きな特製イチゴパイをペロリとたいらげる。とてもじ
ゃないが、この食欲だけは真似できない。
 夕食のあとは、談笑したり本を読んだりしてくつろいだひとときを過ごす。ときには僕
が東洋の神秘・指圧マッサージを施し、みんなに大いに喜ばれた。また、小屋に完備して
いたサウナに入るのもアフタースキーの楽しみのひとつ。ただ、サウナで汗を流せるのは
いいのだが、困ったことに水がない。そこでサウナから出るとすぐに外へ飛び出していっ
て、雪中水泳大会が開幕するというしだい。なにしろいい歳をした男どもが裸で雪の中を
転げまわるのだから、異様なことこのうえない。これには毎日、大爆笑であった。
 三月二〇日、楽しかった九日間の山小屋生活も今日で終わり。外では湿った雪が断続的
に降っていた。昼ごろ、悪天をついてヘリが爆音とともにやってきた。幸せだった日々は
すぐに思い出となって過ぎ去り、再び現実の世界へと帰っていく……。

 カナダでの最大の目的であったバンフ国立公園のワプタ大氷原縦走ツアーが、今日四月
六日からはじまる。カナダでもっとも長いスキーツアーコースのひとつといわれるだけに
、出発前から胸が高鳴る。同行するのは、例によってレスブリッジのスキー仲間三人。み
な、気心の知れた頼りになるパートナーだ。
 ○○○まで車で入り、悪天のなか、ロッキー屈指の美しい湖として知られるペイト湖を
めざす。ところが吹雪でルートファインディングを誤り、北側の沼地に迷い込んでしまう
。なんとかペイト湖に出たときにはすでに陽も傾き、とても今日中にピーターワイト小屋
まで行けそうにない。しかたなく車を停めたところまで引き返す。
 翌朝、昨日のトレースをたどって三〇分ほどでペイト湖に出る。凍った湖上に積もった
雪をラッセルしていくと徐々に谷はV字状に狭まり、岩と雪がつくり出すモノクロームの
幻想的な世界が展開されるようになる。
 谷に沿って左岸を進んでいくと、やがて大きな雪壁に突き当たって行く手をはばまれた
。空身で深雪をラッセルしながらこの雪壁を登り詰めようとするのだが、最後のところで
頭上に大きく張り出した雪庇がなかなか突破できない。「これは穴をあけて突破するしか
ないな」ということで、雪庇の下側の雪をスコップで大きくえぐり取り、そこにストック
を力いっぱい突き刺して小さな穴をあける。その穴を広げて人が通れるぐらいのトンネル
をつくり、ひとりが上に上がってザイルでザックとスキーを引き上げ、ようやく雪庇の上
に出ることができた。
 右下に切れ落ちた谷に落ちないよう、バランスをとりながら岩の上についた雪をひろっ
て慎重に登っていく。突然、視界が開けたかと思うと、そこはペイト氷河の最下部であっ
た。さらに登り続け、白いベールのようなモヤに包まれた巨大な岩壁を左に大きく巻くと
ピーターワイト小屋が現れる。小屋の外に立てかけてある二〇台ほどのスキーを見ると、
すべてテレマークタイプの板だった。ここカナダでは、山スキーよりもテレマークスキー
のほうがポピュラーなのだ。
 翌八日は昨日同様の曇天。四月といっても日本の冬山以上の寒さを感じる。
 出発する際に、仲間のひとりが茶目っ気を出して、いつも冗談ばっかり言っている怪力
男のザックの中に直径二五mほどの石を放り込む。一時間ほど歩いて休憩をとったとき、
怪力男がザックをあけたとたんに唖然とした表情になる。その顔を見て、我慢していた笑
いをこらえきれずに一同大爆笑。
「やけに今日の荷物は重いなあと思ってたんだ」
 と言いながら、怪力男も思わずニヤニヤ。ほんとうに楽しい仲間たちだ。
 三角錐のセントニコルスピークの脇を過ぎ急坂を登っていくと、マウントオリーブと呼
ばれる美しい山とのコルに出る。このコルから、今日の目的地であるバルフォー小屋をめ
ざして滑降。テレマークターンでくるくる弧を描きながら快適な滑りを満喫する。
 小屋にはまだ早いうちに到着したので、各自が自由行動をとる。スキーがてら、神秘的
な美しさを放つブルーアイスを見学したりと、あまり人の入っていない大自然を大いにエ
ンジョイした。
 九日はルート後半の下降路となるニールマ谷を滑降する予定になっていたのだが、雪崩
の危険があるということなので、その途中の稜線まで登って様子を見ることにする。
 凍結した湖にいったん下り、マウントバルフォーの脇を登りはじめる。この一帯は雪崩
の巣になっているため、万が一、雪崩に襲われてもすぐにほかのメンバーが掘り起こせる
ように長い間隔をとって登っていく。
 稜線上に出ると、真新しいイーグルがあった。その中で軽い昼食をとったのち、マウン
トオリーブに向かっての大滑降を楽しむ。
 最終日の一〇日、コースの変更を決定し、ヨーホー谷へと下るルートをとる。
 ヨーホー谷上部の谷間は下るにつれて狭くなり、大滝を巻いたり急斜面をへつったりト
ラバースしたりして下っていく。樹林帯に入ってようやくラクになるかと思っていたら、
現在位置がわからなくなってみんなで探しまわるハメに。何度も登下降を繰り返している
と、さすがにもうスキーはたくさんだという気分になってくる。
 やっとのことでヨーホー谷下部の緩やかな川沿いの林道に出て、クロカンのようにスキ
ーを滑らせながら先を急ぐ。好天のせいか、ドドーンという雪崩の大爆音が連続して谷間
にこだまする。途中、落差四〇〇mのカナダ最大の滝が美しい氷瀑を見せてくれた。
 清冽な雪どけ水の音がしだいに大きくなってくると、やがて車の往来の激しい○○○の
大幹線道路に飛び出し、長いスキーツアーのフィナーレを迎えた。
 初日のミスで食料予定が狂ったため、○○○の頂には登れなかったが、総距離六〇キロに
もおよぶ白く長い大氷原縦走ルートを完走できたことに深い満足感を覚える。おそらくこ
れは、日本人による初縦走ではないだろうか。
 すばらしい氷河での滑降と素朴な山小屋生活が楽しめるこのコースは、ヨーロッパのオ
ートルート同様、近い将来、日本でも静かなブームを呼ぶに違いない。もっとも、この大
氷原にすっかり惚れ込んでしまった僕としては、あまり人が来てほしくないという気持ち
のほうが強いのだが。
 さて、その日のうちに我々はヒッチハイクで車を停めておいた場所までもどり、一〇〇
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のにまだ遊び足らず、グレッシャー国立公園でさらにテレマークのウデを磨こうと思った
わけである。
 この夜は、山中でのひどい行動食の反動が出たのか、心ゆくまで飲み食らう。ボリュー
ム満点のステーキ、それにビールとワインで、粗食に耐えてきたかわいそうな腹を存分に
満たしたのであった。
 翌日の一〇時ごろになってガイド役の夫婦二人がようやく到着し、慌ただしくホテルを
発つ。長い林道歩きを終えて氷河の急斜面を登っていくと、上に行くにつれてすばらしい
パノラマが展開するようになる。それはともかく、カナダ人の登るスピードの早さにはほ
とほとまいる。彼らはみな馬車馬のようにパワフルなのだ。しかもどんどん先に行ってし
まって、遅れる僕を待ってもくれない。ちょっと意地悪である。
 午後三時、コルに到着。ここからの景色がまたすばらしく、その美しさは言葉では言い
現せない。強いて言うなら、「こんな景色が見られたならばもう死んでもいい」というの
がいちばん適切だろうか。
 コルから無名峰に登り、時間がないからと競争するようにして滑降を開始する。林道に
滑り降りるころには、すでに夕闇が迫っていた。
 一二日、昨日と同じコースを途中までたどり、左側へ折れて東に進む。とてもスキーで
は登れそうにないような急斜面を、みな平気な顔をして登っていく。さらには次々と行く
手をはばむクレバスや難所を、アンザイレンしたまま猛烈な勢いで通過していく。「よく
もまあ、こんなすごいところを……」と呆れる僕のことなんかまるで眼中にない。
 稜線に出るとようやく平坦な地形となるが、最後のヤングピークへの恐ろしく急な雪稜
の斜面だけは、さすがにみんなスキーを担いで這い上がっていた。ちなみにこの雪稜を登
るときの恐怖感は、今まで登ったどの山でも味わったことがないくらいにすごかった。
 なにはともあれ、彼らのパワーには心底、脱帽。一七五〇mもの標高差を四時間ほどで
登ってしまうのだから、とても人間とは思えない。
 ヤングピークの頂上からは、四〇度以上の斜面を下ることになる。ふつうならまず下る
気にもなれないようなところだ。バテた体にはよけいツライ。
「よし、行くぞ」
 と気合を入れ、意を決して滑り出す。ヒヤヒヤ、ハラハラの連続だったが、どうにかこ
れを滑り降りると傾斜も緩くなる。これでカナダのスキー山行も終わりだと思うと、スキ
ーを滑らせる足にもおのずと力が入る。
 麓のホテルに帰り着いたところで、痛快恐怖のカナダ漫遊スキー旅行は無事、幕を閉じ
た。

旅の終わり、ネパールでこの一年間を振り返る

 世界一周旅行の締め括りはネパールで、と当初から考えていた。カナダからバスでロサ
ンゼルスにもどり、中華航空でハワイへ渡ってサーフィンを楽しみ、十カ月ぶりに日本に
帰国。月山で行なわれたテレマークスキーのイベントに参加したあと、慌ただしくネパー
ルへと旅立っていった。
 八〇〇〇m峰のふるさと、ネパール。首都カトマンズに着くなり、僕は一目でこの街が
好きになってしまった。人々の生活はゆったりとしていて、他国と比べると性格もずいぶ
ん穏やかだ。宿は一泊五〇円からと格安、僕が泊まった一泊二〇〇円の宿は部屋が広くて
明るく、そのうえ清潔で申し分がない。もちろん食事も安いので、一カ月五〇〇〇円もあ
れば充分に生活していける。ほんとうに居心地のいいところである。
 僕が訪れた時期はちょうど雨期にあたっており、残念ながら山に登ることはできなかっ
た。それでも一度は八〇〇〇m峰を目にしてみたいと思い、ポカラまで足を伸ばた。雲の
切れ間から顔をのぞかせる八〇〇〇mの峰々は、あまりに巨大で、神々しいまでに神秘的
であった。
 ネパールに滞在した2カ月間というもの、僕はもっぱら昼寝や読書をしたり祭りを見に
いったりしてのんびりと過ごした。気のむくまま、何も考えず、ただボーッして暮らすの
もなかなかいいものだ。
 振り返ってみると、この一年間にさまざまな人たちとの出会いと別れがあった。予期せ
ぬアクシデントもあったし、病気にもなった。運よく登れた山もあれば、残念ながら次回
の機会に持ち越した山もある。しかし、いくつかの山に登頂できたことよりも、世界中の
無数の山々をこの目で見られたことのほうが、僕にとっての大きな収穫になっている。そ
れはつまり、世界の国々と山々を実際に体で体験した証のようなものだと思う。
 これからは、海外の山がどんどん単独で登られるようになっていくだろう。僕自身、実
際に体験してみて、海外での単独登山が思ったほど困難でないことを強く感じた。日本の
単独行者も、ターゲットを国内の山のみに限定せずに、もっと海外の山を意識してもいい
のではないだろうか。そしてまた、海外の山に登りにいったら、その国の人々や生活、文
化、風習などにも目を向けてもらいたい。そうすれば、体を通してその国を理解できるよ
うになるはずだ。
 僕の場合、一年間におよぶ世界一周旅行の総費用は約一〇〇万円であった。その内訳は
、飛行機代が約六〇万円、宿代が約五万円、現地での交通費が約五万円、食費は約二〇万
円、その他一〇万円といった具合だ。日本で年間一〇〇万円で暮らすというのは大変なこ
とである。そう考えると、世界一周の一〇〇万円は実に安く感じられる。
 世界は我々の身近にある。もし、世界を見てみたいという願望があって時間さえ工面で
きるのなら、一生のうち一度はチャレンジしてみることをおすすめする。
 最後になったが、僕が世界一周を終えてみてなにより感じるのは、どんな状況に陥って
も切り抜ける知恵と力が身についたということである。どんな世界でも生き抜けいていけ
る自信がついた。それが山であれ、都会であれ。



  

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