SKIING TRAVERSE JAPAN ALPS

日本海と太平洋を結んで日本列島横断山行

HARA NOBUYA

 
日本海と太平洋を結んで。一四年がかりの日本列島横断山行

 僕の部屋の壁には、国土地理院発行の五〇万分ノ一地方図が貼られている。山行から帰
るたびに、積雪期のルートは青色で、無積雪期のルートは赤色で、この大きな地図上にた
どったトレールを書き込んでいた。これを見ながら、次はどの山へ行こうか、どんな方法
で登ろうかなどと、未知の山行にあれこれ思いを馳せるわけだ。それがまた、僕にとって
の山登りの大きな楽しみのひとつになっている。
 一九八四年(昭和五九年)の冬のある日、僕はいつものように寝ころびながら地図を眺
めていた。地図上を彩る赤や青の線は、このときすでに中部山岳の主なピークを網羅して
いた。それらの線を目で追っていると、かつて登ったピークや尾根の様子が鮮明に蘇って
くる。
「さあて、次はどんな山登りをやってやろうか」
 そう考えていたときに、ふとひらめくものがあった。
「まてよ、3つの日本アルプスを一本の線でつなぎ、日本海から太平洋まで本州の中部山
岳を歩いて横断するというプランはどうだろうか。案外、難しいことではないかもしれな
いぞ」
 この胸踊るプランに、僕は少なからず興奮した。早速、作戦を練り、次のような本州横
断ルートを考え出した。
 すなわち、日本海~白馬岳~後立山連峰~槍ガ岳~穂高岳~乗鞍岳~御嶽山~阿寺山系
~木曽駒ガ岳~中央アルプス主脈~恵那山~茶臼山とたどり、長野・静岡県境の南アルプ
ス南部の稜線を北上、さらに間ノ岳から山梨・静岡県境上の山々を南下し、静岡の竜爪山
を経て太平洋に至るというルートである。
 机上で考える限り、達成にかかる時間的な点からも難易度の点からも、このプランがい
ちばん理想的なように思えた。そこでまず手始めに、同年三月三日から四日にかけて、御
嶽山と阿寺山系をつなぐためのルートとなる小秀山周辺を山スキーで歩いてみた。ところ
が、このルートは立木が多いうえに起伏も激しく、予想以上に苦しめられる。結局、途中
で山行を断念して帰ってきてしまったのだが、その時点でもう一度ルートを検討してみた
結果、御嶽山と阿寺山系をつなげるには最低でも二年が必要だということがわかり、仕方
なく計画を変更することにした。
 新しいプランは、当初の乗鞍岳~御嶽山~阿寺山系のコースを除外し、鉢盛山周辺のル
ートを取り入れることによって北アルプスと中央アルプスをつなげようというものになっ
た。鉢盛山周辺のルートはすでに山スキーで集中的に開拓していたので、横断のため新た
に歩く必要はなく、余計な時間と労力を使わずに済む。部分的には平地歩きを交えなけれ
ばならなくなるが、それもやむをえまい。
 さらに、中央アルプスと南アルプスを結ぶ恵那山~茶臼山周辺のルートについても、効
率の悪い迂回コースになることから見直しを図り、とりあえず飯田市~小川路峠~八重河
内のコースを採用して二つの山脈をつなげることにした。恵那山~茶臼山周辺は、ほとん
ど人の入らない魅力的な山域で、変更するのは惜しい気もしたが、いつの日か時間に余裕
ができたときにトライしても遅くはないだろう。
 さて、新プランに従えば、残っているのはふるさと静岡の安部奥の山々、中央アルプス
と南アルプスをつなげるコース、それに北アルプスと南アルプスの一部のコースである。
この課題を早急にこなすべく、同年八月に北アルプスの白馬岳~朝日岳~親不知を、九月
には南アルプスの三伏峠~小河内岳~大日影山~板屋岳~前岳~内無沢~小西俣~中俣~
塩見岳を踏破。残るは静岡の山と、中央アルプスと南アルプスをつなげるコースだけとな
った。地元とその近辺の山々を最後まで残しておいたのは、「どうせいつでも登れるんだ
から」と考えたためだ。
 しかし、今、振り返れば、これらの山々に意欲的に登ろうとしなかったことが、僕の考
える“理想的な横断ルート”からの逸脱をさらに促したように思う。というのも、翌一九
八五年(昭和六〇年)は、テレマークスキーに熱中するあまり、列島横断のための山行は
皆無という有り様。年が明けて夏が過ぎるまではテレマークに没頭し、秋になって慌てて
残されたルートを歩こうとしたことから、最後の最後でルートを短縮・変更しなければな
らなくなってしまったのである。
 なにはともあれ、一九七三年(昭和四八年)の北アルプス・白馬岳~唐松岳~五竜岳~
鹿島槍ガ岳の夏山縦走から始まった僕の日本列島横断山行は、一九八六年(昭和六一年)
の小川路峠越えをもって一応の決着を見た。所要年数はなんと一四年。最初に思い描いた
“理想的なルート”と比べると、一部で安易なコースどりをしてしまったことが残念だが
、目的意識を持ってひとつの大きな記録を成し遂げたという意味では、満足のいく内容で
あった。そのなかでもとくに思い出深い山行をピックアップして、以下に記してみた。

一シーズンをかけ、鉢盛山周辺を山スキーでルート開拓

 乗鞍岳の東側から西側にかけて、標高二〇〇〇m級の樹林の山々が連なっている。その
なかの一峰が鉢盛山(二四四六m)だ。ほとんど知られていないこの山を発見したのは、
例によって地図を眺めていたときだった。地図から予想する限り、鉢盛山周辺にはシール
登高とスキー滑降に最適そうな斜面が広がっていた。うまくいけば、島々から鉢盛山、大
笹沢山(二〇三一m)を経て木曽福島へつなぐスキールートが開拓できるかもしれない。
そう思うと矢も楯もたまらなくなり、ロクに下調べもせずに、スキーを担いで現地へと向
かった。
●一九八三年(昭和五八年)二月五日~六日/寄合渡~小鉢盛山~鉢盛山~南東尾根~御
馬越
 二月五日 松本からのバスを寄合渡で下車。通りかかった村人に、鉢盛山まで道がつい
ているのかどうかと聞いてみると、途中までならスキーリフトが架かっているとのこと。
まさかスキー場があるとは思ってもいなかったので、一瞬、拍子抜けする。
 スキーヤーの姿もまばらな野麦峠スキー場で、リフト券を買ってリフトに乗ろうとする
と、キップ切りのおばあちゃんが怪訝そうな顔をしてこう尋ねる。
「お前さん、そんな大きな荷物を担いで、いったいどこへ行くのかね」
「ええ、ちょっと鉢盛山まで」
「はあー、この雪のなかをあんなところまでねえ。まあ、気をつけて行ってらっしゃいよ」
 リフトの終点から、薄暗い樹林帯のなかの緩斜面を登っていく。時折、シールに付着し
た雪を木にぶつけて落とさなければならず、そのたびに枝に積もっていた雪がドドーッと
落ちてきて冷たい思いをする。
 二〇四〇mのコルに達すると視界が開け、東側には山スキーに向いていそうな烏帽子岳
方面の山稜が見える。ホテった体に、寒気が心地よい。ただ、あちこちに木を伐採した跡
が見られるのは、あまり気持ちのいいものではない。なにもこんな山深いところの木まで
を伐採しなくてもいいのに、と思う。
 稜線上の積雪量は、山スキーには充分なくらいだが、太陽の光と風の加減で雪面の状態
がいささか不安定である。堅くなったかと思えばすぐに軟らかくなったりして、意外に神
経を使う。二一〇一m付近のコブを越えるあたりから、シールではちょっと手強い箇所が
現れるようになり、緊張を強いられる。
 小鉢盛山は何の変哲もない山稜の一部で、どこがピークなのか見当もつかない。その東
側に張り出している雪庇の下で、風を避けて昼食をとる。松本駅で買った寿司弁当が、思
いのほかウマかった。
 前方の霞のなかにぼんやりと見える鉢盛山を目指し、シールを外してコルへと下ってい
く。出発前、地図上では簡単に滑れそうに見えた斜面だが、ホワイトアウトになっている
ため周囲の景色が何も見えない。いったいどのへんを滑っているのかもわからず、次第に
不安になってくる。
 コンパスを頼りに、不気味なくらい静かで白い世界をゆっくり下っていると、突然、真
っ白いウサギが音も立てずにスキーの先端を駆け抜けていった。まさかの侵入者にびっく
りしたのだろう。それにしても、後方を回ればよさそうなものを、なんでわざわざ僕の行
く先を横切っていくのだろうか。語りかける仲間もいない単独行では、どうしてウサギが
そんな行動をとるのかということまで深く考えてしまう。
 小鉢盛山と鉢盛山の小さなコルで再度シールを付け、クラストした急斜面を何度もズル
ズルと後ろに滑っていきそうになりながら登っていく。ほかに登山者はまったくおらず、
あたりは静まりかえって怖いほどの神々しさを感じる。
 一四時三〇分、鉢盛山の山頂に到着。頂上を示す小さな標識と対照を成すように、巨大
な反射板が建っている。登る者もほとんどないような山に、なぜこうした人工物を平気で
築き上げてしまうのか。その神経が僕には理解できない。ただ、山頂からの展望は抜群で
、穂高や中央アルプスなど、三六〇度のパノラマを楽しむことができた。
 ピークから少し下り、風を避けられる場所を探してツエルトを張る。僕にしては珍しい
、酒のない一夜。早々にシュラフにもぐり込み、深い眠りへと落ちていった。
 二月六日 昨日からの雪は、三〇m以上積もったようだ。朝、目を覚ましてみると、わ
が愛用のツエルトは雪の重みに耐えかねて垂れ下がり、シュラフを圧迫していたが、その
ためにかえって暖かく感じられ、よく眠ることができたのだろう。
 今日は朝から吹雪いており、視界が四〇mもない。そこでハト峰方面への縦走計画を中
止し、南東に延びる村境尾根を下ることにする。
 所々に見られる小さな村境標識で位置を確認しながら、慎重に下っていく。クラストし
た雪面に粉雪が乗っている状態なので、滑りにはけっこう気を使う。
 無人の村営小屋を過ぎ、ヤセ尾根をパラレルで忠実にたどっていくと、やがて暗い樹林
帯となる。左側の沢筋には、小さな雪崩がいつくか発生していた。
 こんな視界の悪い吹雪のときこそ、高度計と二万五〇〇〇分ノ一地形図のありがたさを
しみじみと感じてしまう。
 一八六〇m地点で、最新の地図にも記載されていない味曽川と野俣沢を結ぶ林道に出る
。ここから踵をフリーにして、クロスカントリーの要領で滑走。力を入れなくとも、自然
にスピードが出るので楽だ。途中、崩壊箇所があったため、高巻きをしなければならず、
今回いちばんの緊張を強いられた。
 何度もS字状に屈曲する林道を、串刺し状に小気味よくウェーデルンで下る。最終カー
ブの手前で、カモシカがきょとんとした顔でこちらを振り向いた。降りしきる大粒の雪の
なか、御馬越の集落に着いたのは一二時三〇分のことだった。

●一九八三年二月一九日~二〇日/野麦峠スキー場~小鉢盛山南尾根~細島
 二月一九日 先々週に引き続き、再び鉢盛山へ。今回は奈川渡ダム方面へ北上する尾根
を滑ろうと思って来たのだが、前日からの天気予報によれば、どうやら天気は崩れる模様
である。ならばと、登りがほとんどない小鉢盛山の南尾根を滑降することにする。
 野麦峠スキー場に行くと、この前来たときと同様、リフト係のおばあちゃんに声をかけ
られた。
「今日はひどい吹雪だから辞めたほうがいいよ」
 しかし、思うままに休みがとれない勤め人の悲しさ、せっかく来たのだからと、吹雪を
ついて出発。二一二三mの小ピークから、南方に延びる尾根へトラバース気味に取り付く。
 伐採された殺風景な斜面を膝までのラッセルで一〇〇mほども登っていくと、風雪が猛
烈な勢いで体を叩きつけてきた。頬を凍傷にやられないように、慌てて目出帽を深くかぶ
る。
 地図上では快適そうな下り斜面が続くように見える南尾根、この先は下るのみだから楽
に滑降できるだろうと思っていたら、とんでもない大間違い。ほとんどがラッセル混じり
の滑りとなる。しかも倒木が多く、それらを巻きながら進むので、予想以上に時間がかか
ってしまう。単純そうに見えた地形も実は複雑で、吹雪のなかではなおさら地図読みが難
しく、高度計を唯一の頼りにスピードを抑えながら滑っていく。
 二〇九六m地点から南へ分かれる尾根はわかりにくいものの、慎重に進むとほどよい下
りとなり、シールを付けたままズルズルと滑るようになる。やがて、地図上では平坦地に
見える箇所に差しかかったが、実際はけっこう起伏が激しく、完全に予定ルートから外れ
てしまったと思った。何度も地図と地形を見比べてみるのだが、いまひとつ確信が持てず
、心が迷う。こんなときほど、単独行の心細さを身に染みて感じることはない。
 しかし、進むに従いルートは徐々にヤセ尾根となり、間もなく二本の送電線を頭上に確
認するに至り、自分の地図読みが間違ってなかったことを知って思わずホッとする。
 相変わらず目頭に白い風が叩きつけられるなかを一七一八m地点の手前まで進み、崩れ
やすい雪の斜面のトラバースして次のコブ状台地になんとかたどり着いたところで、予定
していた小木曽までの縦走を断念することにした。ここから尾根を外れて下っていけば、
あとわずかで細島に出られる。そのアマい考えに、どうしても打ち勝つことができなかっ
た。
 ところが、樹林と雑木のなかを滑っているうちに、斜面に慣れてきたこともあってつい
つい調子に乗り過ぎ、奥深い沢のなかに入り込んでしまった。ガレ場の多い沢のなかでは
行動も思うままにならず、夕闇が近づいてきたなと思ったらアッという間にあたりは闇に
包まれた。林道まではすぐに出られるはずなのだが、足元が見えなくなってしまってはど
うすることもできない。仕方なく、ビバークを決意する。
 とはいうものの、充分な装備があるわけではないし、横になるだけのスペースも見つか
らない。結局、凍りついた沢筋に腰を下ろしたまま、寒さに震えながら一夜を明かすこと
になってしまった。
 二月二〇日 辛く長かった夜が終わり、湿った雪がしんしんと音もなく降るなかで行動
を開始。沢の徒渉を何度か繰り返すが、傾斜がきついうえスキーをはいたままなのでかな
り神経を使う。
 細いスノーブリッジを渡り、段丘状の斜面を滑っていくと、突然パッと視界が開け、待
望の林道に飛び出した。道路脇に積もった雪の上を、そのまま藪原駅まで滑走していく。
途中、チェーンを付けた数台の車とすれ違ったが、ガラス越しに見える車のなかの顔は、
僕に視線を向けながら皆一様に不思議そうな表情をしていた。

●一九八三年二月二六日/藪原スキー場~奥峰~木曽福島
 懲りずに今週も入山。今日は鉢盛山の南西に位置する奥峰を目指す。
 藪原スキー場のリフト終点より、シールを付けて登高。リフトから上の斜面では、アル
ペンスキーヤーの姿をまったく見かけない。一面の銀世界を独占する優越感を味わえるの
は、山スキーならではだ。今年の一月にここを訪れたときよりも雪は格段に多く、しかも
雪質が締まっているためシールがよく効き、非常に調子がいい。この周辺の山域を山スキ
ーで楽しむには、今ごろがいちばんいい時期かもしれない。
 登りはじめて三〇分ほどで、奥峰の広い山頂に到着。雪を着飾った樹林の間から、端正
な形をした御嶽山が見える。ひとり、のんびりと山岳展望を満喫する。
 山頂からは、南へ延びる尾根を下る。上部はあいにくヤブが多く、すっきりとした滑り
は望むべくもないが、下るにつれてだんだん快適に滑れるようになってくる。
 東側に張り出した小雪庇の上を崩壊に注意しながら小回りターンで通過し、いくつかの
起伏を越えていくと、ふたつの大きな尾根が分かれている平坦な一五三〇m地点に出る。
このあたりの樹林と雪がつくり出す景観はなかなかすばらしく、山小屋でも建てたらムー
ドあるいい小屋ができるんじゃないかと思う。
 ここで上小川沢と幸沢川の間を木曽福島方面へ延びる尾根をとり、上気した顔に冷たい
風を受けながら気持ちよく滑り下りていく。やがて、妙にシーンとした深い樹林帯へと入
っていくが、そんな場所でこそ、山スキーの雰囲気を心ゆくまで味わえるというものだ。
 迷い尾根に入り込まないように注意して小さなコブを階段登高で乗っ越すと、大木の下
に小さな祠が立っているのを見つけた。かつては山麓に住む人たちの祈りの場であったの
だろう。南側に目を転じれば、雪をかぶった奥幸沢の集落が見える。
 さらに、アップダウンを繰り返しながら大岩が露出するヤセ尾根をたどっていく。地図
で見るよりも地形はかなり複雑で、何度も立ち止まっては現在地をコンパスで確認しなけ
ればならない。
 それにしても、中部山岳などで地図とコンパスを使って山を歩いている登山者をとんと
見かけないのはどうしてだろうか。北海道の大学を卒業して本州の山に登るようになった
とき、まず驚いたのがそのことだった。というのも、北海道の山は地図とコンパスを使い
こなせなければ絶対に登れなかったからだ。もちろん、本州のポピュラーな山は北海道の
山と比べて道も整備されているが、ガスに巻かれたときや冬山などでは、やはり最後には
地図とコンパスを頼りにしなければならないはずだ。山へ登る者は、それが単独行である
ならなおさら、地図とコンパスを使いこなせるようにしておくべきだと僕は思う。ひとり
で山へ行って地図やコンパスを見るたびに、ついついそんなことを考えてしまう。
 対岸に細い林道が見えてきたところで、疲れるだけの尾根歩きに嫌気がさし、幸沢川側
の薄暗い沢に滑り込む。最初のうちはジャンプターンがスムーズにキマる滑りやすい斜面
だったが、下部は小雪崩があちこちに発生していて通過するのに苦労する。
 適当な箇所でスキーをはいたまま幸沢川をジャブジャブと渡り、ようやく雪の厚い林道
に飛び出した。早速、ザックにしのばせてきた釣り竿を取り出し、糸を垂らしながら川沿
いを滑る。短い時間で、イワナを数匹釣り上げた。ヘボでも釣れるいい沢だ。
 車の往来が激しい国道に出たところでスキーを脱ぎ、歩いて木曽福島駅へ向かった。

●一九八三年三月一九日~二〇日/御馬越~ハト峰東尾根~鉢盛山~北尾根~島々
 三月一九日 御馬越からシールを付けて、ハト峰から東に延びる尾根を登る。三月半ば
を過ぎた今の時期はさすがに暖かく、春の訪れを感じさせる。
 天気がよすぎるため雪はクサり、シールの裏に厚さ三〇mほども付着してしまう。これ
を落としながらの急斜面の登高はかなりつらい。暑さとの闘いが、しばし続く。
 ハト峰近くの稜線へ続く上部の緩斜面に出ると、ヤブをこぎながらのシール登高となる
。体中に雑木の枝が当たり、いつの間にか手や顔は傷だらけ。流れ出した汗がその傷を刺
激し、ヒリヒリしてたまらない。しかし、このひどいヤブの雪山を登るようなモノ好きは
自分だけだろうと思うと、なにやら力が湧いてくるから不思議なものだ。おそらくそれは
僕に限ったことではあるまい。ひとりで山を歩いている者はすべからく、マゾヒズム的な
自己満足をエネルギーに変えているのではないだろうか。単独行者というのは、みなどこ
か屈折しているのかもしれない。
 一七五〇m地点を過ぎると、ようやく木々はまばらとなる。すっきりした急斜面を登り
きって、爽やかな西風が吹き渡る稜線に出る。澄んだ空のもと、陽はもうだいぶ傾きかけ
ている。一九二四mのコブを越えたあたりで完全にバテてしまったので、ハト峰と鉢盛山
との中間鞍部でツエルトビバークに入った。
 夜、目が覚めて外に出てみると、夜空には冬の星座がキラキラと輝いていた。遠い彼方
にある銀河も、流れる雲のように浮かんでいる。山の沈黙に耳を傾けていると、なぜか心
が安らかになってくる。
 三月二〇日 朝四時起床。のんびりと朝食をとって出発。締まった雪にシールがキュッ
キュッと鳴り、昨日とはうってかわって快適に斜面を登っていける。ハト峰から鉢盛山ま
での尾根歩きは展望もいちだんとよく、登りのつらさもまったく気にならない。隅々まで
晴れわたった空の下、九時三〇分に鉢盛山山頂着。
 山頂から平原状の尾根を滑り出す。しばらくは緩やかなアップダウンが続くが、気温が
上がったせいか雪が昨日のようにベタついてきた。シールに着いた雪塊を時々落としなが
ら、クニャクニャと曲がった尾根を忠実に滑り歩く。二一七二m地点で、はるかな山々を
望みつつ、パンとチョコレートの簡単な昼食をとる。
 この先は、もうほとんど下るだけだ。標高差三〇〇mほどの最初のヤセ尾根はターンが
できないので、シールを着けたままズルズルと直滑降で滑る。ここを過ぎると直射日光が
当たらない斜面となり、雪の状態もよくなってくる。伐採された広い台地を抜け、トラバ
ース状に沢を横切ると、送電線が現れる。一一七〇m地点から北側へ滑り込み、イバラの
ひどい振り子状の沢を下っていけば、稲核へと続く林道に出る。稲核を経て、島々までス
キーを背負って車道を歩く。

●一九八三年三月二六日/野麦峠スキー場~小鉢盛山~小鉢盛山北尾根~入山
 先月末、吹雪のために果たせなかった小鉢盛山北尾根のルート開拓に再度トライする。
 小鉢盛山までの登りは、二月のときと比べて積雪も多少増えており、そのぶんだけ楽に
感じる。小鉢盛山のピークから、すぐ西にある二二八七mの小ピークへと向かって滑りは
じめる。西側には、青空にポッカリとシルエットを描いた乗鞍岳が見える。周囲の樹木が
まるでメルヘンの世界のような雰囲気をつくり出し、なかなか気分がいい。尾根の斜度も
適度で、のんびりと春の山スキーのムードを味わう。
 しかし、それの束の間、右側に巻いて舌状台地を進んでいくと、その先端から一転して
急な下りとなる。樹木の密度もそうとう濃く、何度も木にぶつかりそうになりながら滑る
ので、神経を使ってかなり疲れる。
 針葉樹に積もった大きな雪塊がボタボタと落ちてくる雪面をジャンプターンで下り、見
晴らしのいいコルに出る。そこから両サイドを眺めてみると、大白川と正沢もなんとか滑
れそうに思えてきた。帰ったら、今後の課題として検討してみることにしよう。
 シールを着け直し、起伏の大きなラクダの背中状の尾根を登りつめたところで、カモシ
カの親子が採食しているのに出会う。僕の姿を認めるやいなや、アッという間に視界から
消えた。人里に近いだけあって、さすがに逃げ足は速い。
 小回りのウェーデルンで雑木混じりの急斜面に滑り込み、再び登りとなって一九六〇m
の三角点にたどり着く。あとは下るだけだ。雪原状の斜面をテレマークで走らせ、右手の
はるか下に青い水をたたえた貯水池が見えるところに出る。この先の尾根を忠実にたどっ
ていくには雪不足だろうと判断して、入山の集落に向かって沢筋を滑り下りることにする。
 入山の人気のない古びた家並みを抜け、一五時一〇分に奈川渡ダムのバス停に到着。一
日だけの充実した尾根滑りが無事、終了した。

●一九八三年四月三日/御馬越~ハト峰東尾根~ハト峰~唐沢川
 山スキーでの鉢盛山周辺のルート開拓も、ついにハト峰から北東に続く長い尾根を残す
だけになった。
 このルートを走破するには、二週間前に散々苦しめられたヤブ尾根を抜けて枝稜線に出
なければならない。できれば二度と来たくはないと思っていたのだが、あいにくまともに
スキーで登れそうな他のルートが皆無なのだから仕方ない。もうこうなったら意地である。
 一四八六m地点へは、前回のひとつ東側の尾根を適当に登っていく。下部ではすでに雪
が消え、土の香りがほのかに漂っていた。途中から、この前と同様のヤブをこぎながらの
スキー登高となるが、前回のトレースがわずかに残っていたため迷う心配もなく、できる
だけヤブの少ないところを選んで早く歩くことができた。
 稜線に出ると、風がとても爽やかに感じられる。ハト峰への登りは意外と手強く、硬め
の雪面をシールで無理やり登っていった。一三時二〇分、ハト峰のピークに到着。新旧入
り交じった奇妙な石碑がいくつもあるのはどうしてなのだろうか。よく見ると、数カ所に
テントを張った跡もある。先週ぐらいに多人数のパーティが登ってきた模様だ。今シーズ
ンは何度も鉢盛山周辺に通い続けてきたが、これが、僕が出会った最初で最後の人間の痕
跡である。
 足跡を追いかけるようにして、シールを着けたまま見晴らしのいい長い尾根をのんびり
と進む。一七七三m地点を越えたコルで足跡とサヨナラして、なおも北進する。どうやら
そのパーティは、保養センターからハト峰をピストンしたようである。
 風と光を体いっぱいに浴びながら黙々と尾根をたどっていくと、一六六〇m地点で深く
溝状にえぐれた道らしきものに突き当たった。大変滑りにくいため、白山まで行く予定を
変更し、スキーを外して唐沢側へ降りることにする。枯れ葉の敷き詰められた斜面を駆け
るようにして、一六時一〇分、出合に下り着いた。

 以上をもって、鉢盛山周辺の山スキールート開拓はとりあえず終了した。積雪期にしか
歩けないような雑木ばかりの山域なので、おそらく初めての縦走であろう。
 鉢盛山周辺に通い続けている間、山で他の登山者や山スキーヤーに出会ったことはまっ
たくなかった。そんなマイナー性が僕を引きつけたのであるが、なにより未知の山域を踏
破してやろうという熱き開拓精神が、短い期間に集中してこの山域に何度も僕の足を運ば
せたのだと思う。
 混沌としたヤブ山をひとりだけの山スキーで開拓できたという点で、この記録は僕にと
って非常に思い出深いものになっている。
 なお、これで北アルプス山麓の島々から中央アルプス登山口の木曽福島までをつなぐこ
とができたわけであるが、のちの一九八七年三月に奥峰~大笹沢山~境峠~細島のコース
をテレマークスキーで踏破したことにより、現時点での本州横断のルートは鉢盛山と大笹
沢山を結ぶコースに変更されていることを付け加えておく。

アマゴ釣りの沢から原始の稜線へ。南アルプス深南部のひとり歩き

 南アルプス主稜線の南のはずれに、光岳、加々森山、池口岳、鶏冠山といった二〇〇〇
m級の峰々が連なっている。その鶏冠山の西側斜面に深い谷を形成する梶谷川へは、毎年
秋になるとアマゴを求めてよく通っていたものである。しかし、魚止めの滝から奥へは一
度も入ったことがなく、また猟師らがよく入るわりには遡行図が雑誌等に掲載されている
のも見たことがない。それが僕の好奇心をいたく刺激し、いつかはひとりで竿を持って源
流の様子を見てみたいと思っていた。
●一九八三年(昭和五八年)九月二三日~二五日/南アルプス・梶谷川~鶏冠山~池口岳
~加々森山~三俣山~白倉川
 九月二三日 梶谷川の中流域はいつ来ても美しい。大滝の脇には高巻き用の古い木道が
かけられているが、そのほとんどが腐りかけていて、いつも数カ所でヒヤリとさせられる。
 大釜を過ぎ、先月来たときに二五mの腹太のアマゴを釣った岩棚に着くと、高さ一五m
もあった巨岩がその後の集中豪雨で跡形もなく消え去っていた。そんな光景を見るにつけ、南アルプスや中央アルプスのマイナーな沢が年々著しく変化していることを実感する。
僕自身、遡行図を頼りにして沢に出かけてみたら、地図にないはずの滝に出くわしたり、
逆にあると思っていた滝がガレ場になっていたりして、戸惑った経験がよくある。
 釣糸を垂らしながらゆっくりと沢を登っていくが、今回はなぜかアタリがまったくない
。左側の大岩壁から数条の滝が落ちている箇所を通過し、大曲がりを何度か続けると、沢
は大きくふたつに分かれる。いよいよここから先が、僕にとっての未知の世界である。
 左のトサカ沢は、沢全体が巨大な力で押しつぶされたように、おびただしい岩塊で埋ま
っている。おそらくその下を水が流れているのだろう。一方、右側のカンパチ沢は水量が
多く、狭い沢の入口からドッと水が流れ出している。
 さて、どっちの沢を登っていこうかと、二万五〇〇〇分ノ一地形図を取り出し、地形と
見比べながらしばし考え込む。
「猟師たちが登っていくのはたぶん左のトサカ沢だろう。でも、あえて水量の多いほうを
登るのが、沢登りの正道というものではなかろうか。よし、カンパチ沢を登ろう」
 そう決めて、大きな岩壁に挟まれた狭い沢の入口に入り込もうとするのだが、流れる水
の勢いが激しく、足を近づけただけでビンビン跳ね返されてしまう。急流で滑らかに磨か
れた岩肌に体重を預けるようにしてようやく沢のなかに入り込むと、とたんに陽が暮れた
ように薄暗くなった。奥のほうからは、ドドドーという水音が聞こえてくる。なにやら嫌
な予感を覚えると同時に、「この先にきっと美しい滝が現れるはずだ」という期待感が高
まる。
 ゴルジュを形成する二~三mの小滝を連続して慎重に高巻き、最狭部の五〇mほどの岩
場をまたいで対岸へ渡る。流れに濡れながら五mほどの滝を越すと、その奥には二五mの
大滝が圧倒するような爆音と水しぶきを上げていた。どこか登れそうなところはないかと
周囲を見回すと、ちょうど都合よく、一面コケに覆われた大木が縦になってルンゼに挟ま
っている。それに助けられながら木登りの要領で高巻いていくが、草つきのトラバースは
足元がいつ崩れるかとヒヤヒヤ。こんなところで滑落したら誰も助けにきてくれないだろ
うと思うと、ひどく緊張する。
 無事、大滝を越し、一〇mほどのスダレ状美瀑をシャワークライムで楽しんでいたとき
に、暗い沢に薄日がサッと射し込んであたりが明るくなった。不思議なもので、光は人の
心をも明るくする。この先、難しい箇所もないだろうという楽観的な予測もあり、緊張が
解けて思わずホッとタメ息をつく。
 連続するナメ状の小滝を越して沢が大きく左に曲がると、一変して穏やかな流れとなる
。しかし、その先はガレと倒木が多く歩きにくい。最後の八mの滝を登ると、赤褐色の水
が流れる小さな沢が右手から合流。このあたりからだんだんと霧が深くなってきた。
 けっこう熱心に竿を振っていたのだが、結局、今日は一匹も釣れなかった。高巻きと釣
りで思わぬ時間を浪費してしまい、一七七〇m地点の岩棚でツエルトビバークに入る。
 夜中になって、本格的に雨が降りはじめた。鉄砲水でやられはしないかと不安になり、
ひとりの沢登りの心細さが身にしみる。
 九月二四日 朝早く、水音で目が覚める。ツエルトを叩いていた雨音はいつしかしなく
なっていた。いつも変わりばえのしないラーメン定食をかき込み、まだ濡れているツエル
トを素早くザックに収めて出発する。
 源頭に近いためか、小滝が階段状に続いていて登りやすい。三〇mほどの快適なナメ滝
を経て、扇状の大崩壊地となった沢の源頭部に出る。その左手を草にしがみつきながら登
り、やっと主稜線に立つ。
 ここから鶏冠山に向かうが、朝もやのなか、奥深い山道は極めて細く、そのうえ尾根が
広くなると至るところにケモノ道が縦横に走っていて心が迷う。これほどケモノ道がある
のなら、なにかしらの動物に出くわしてもよさそうなものだが、一匹のシカの姿も見えな
い。いったいどうしてだろうかなどど考えながら、薄暗くジメジメした原生林のなかの急
坂を何回も登下降する。
 途中、大木の上に腰を下ろして休んでいたときだ。突如として山が、そして木が、ユサ
ユサと大きく激しく揺れ動きはじめた。
「オイ、なんだこれは。なにが起こったんだ。地震か」
 慌てふためいているうちに間もなく揺れは収まったが、これがあの、御嶽山に大地滑り
をもたらした大地震だったのである。もし行程が一日ずれていて、今日、沢を詰めていた
ら、崩壊した岩の下敷きになって命を落としていたかもしれない。我身の幸運に、思わず
胸をなでおろしたものだった。
 鶏冠山本峰からは、再びケモノ道が増える。僕ひとりだけが、原生林という檻のなかを
さまよい歩いているような気分になってくる。そんな僕を、動物たちは遠くから「いった
いあの人間は何をしにやってきたのだろうか」などど冷やかに見つめているのかもしれな
い。とはいえ人間も動物の一種であることに変わりはなく、持ち前の“動物的勘”を働か
せながら、ときに地図とコンパスと高度計の助けを借りながら、人間用かケモノ用かさっ
ぱり判断しがたい道を歩いていった。
 なんとか池口岳を通過し、ツガが密生する加々森山のピークを踏んだところで、来た道
を再び戻ることにする。しかし、霧のためどこを通ってきたのかさえもわからず、間違っ
た沢に迷い込んでは慌てて戻るということを何度が繰り返す。そうなると体力はもちろん
のこと神経をも消耗し、三俣山まで来ると、とうとう足がいうことをきかなくなってしま
った。
「まあ、単独行だから、どこで寝ようと俺の自由さ」
 などと勝手に決めつけ、夕暮れの鳥が鳴くなか、丘状の草地でツエルトをかぶりビバー
ク体制に入る。
 夜の原始の森のなかにひとりでいると、原子という最も小さなものや宇宙といういちば
ん大きなものの存在をなぜか認識する。僕の単独行の心象的特徴は、ちょっと哲学的にな
ってしまうところなのである。
 九月二五日 三俣山から尾根を南に少し下り、滝が少ないといわれる西俣沢に入る。小
滝が連続して現れるが、フリクションを効かせながら小気味よく跳び下ることができる。
ゴーロ地帯に出ると、すぐ左手には林道終点の広場があり、ヤレヤレと思ったのも束の間
、ここから白倉沢沿いのほんとうに長い林道歩きがはじまる。
 3時間ほど下ると、巨大な土砂崩れがいたるところに発生していた。先日の集中豪雨の
爪痕だろう。おかげで林道を大きく高巻いたり、川原へ一度下ってから登り返したりしな
ければならなかった。さらに草木からヒョー越林道を延々と歩き通し、やっとのことで出
発地点の梶谷川出合に出た。

夏の北アルプス・栂海新道で静寂の山旅を満喫する

 シーズンたけなわの夏、中部山岳の高山には大勢の登山者が繰り出す。僕はそもそも賑
やかな山はあまり好きじゃないが、開放的な気分でのんびりと縦走を楽しめる季節は夏を
おいてほかにない。本州横断山行の最北ルートとなる白馬岳~栂海新道は、白馬岳周辺で
こそ登山者の多さに辟易するものの、朝日岳以北ではほとんど誰にも会わず、思っていた
よりも快適な単独行気分が満喫できた。
●一九八四年八月一九日~二一日/北アルプス・白馬岳~朝日岳~犬ガ岳~日本海
 八月一九日 前夜に家を出発。静岡から北へとひとり車を走らせる。車だと電車やバス
の時間を気にせず行動できるので、近頃はもっぱらマイカーを利用して山に行くようにな
った。猿倉荘下の大駐車場に着いたのは真夜中。あたりは真っ暗闇で、不気味なくらいに
静まり返っている。疲れた体をビールで癒すと、とたんに気分がほぐれて眠くなる。
 車内で仮眠をとるつもりだったのが、すっかり寝過ごしてしまった。眩しい光に目を覚
ますと、すでに陽は高く昇っている。狭い車内で寝たため、体のあちこちがギシギシ痛む
。車からフラフラと這い出し、急いで準備を整える。
 白馬尻小屋を過ぎると、冷たい空気に包まれた大雪渓が姿を現す。以前、七月に訪れた
ときには登山者がアリのような長い行列をつくっていたのに、今回は八月も中旬を過ぎて
いるためか、登山者の姿は雪渓上に点々と見えるのみだ。
 僕は、夏山ではいつも地下足袋を履いていたのだが、登山者の多い白馬岳を登るにはち
ょっと恥ずかしいだろうと思い、今回はスニーカーを履いてみることにした。たまにポピ
ュラーな山を歩くとなると、ついつい見栄を張って恰好つけてしまう自分が悲しい。
 半袖シャツに半ズボンといういでたちで、大雪渓をぐんぐん登っていく。前夜の疲れが
残っているはずなのに、調子はすこぶるいい。淀んでいた血液の流れがよくなり、体の堅
さもストンとほぐれたような気分になってくる。
 ゴツゴツした杓子岳が間近に見えてくると、可憐な花々が現れるようになる。高山植物
をロープで囲んでいるのは不自然だが、そうでもしなければモラルのない登山者から守れ
ないのが現状なのだろう。
 白馬岳の頂上に立ったのは、実に一一年ぶりのことである。頂上からの景観は昔も今も
変わりない。充分に展望を楽しみ、近くで休憩していた登山者に写真を撮ってもらってか
ら、白馬北方稜線の長い縦走路をたどりはじめる。
 三国境を過ぎ、高山植物の種類が豊富なガレ道を下ると、こじんまりとした雪倉岳避難
小屋に着く。小屋の屋根の上では、一見して学生とわかる登山者が日光浴をしながら本を
読んでいたので、ちょっと声をかけてみた。
「気持ちよさそうですね。どこから来たんですか」
「二週間かけて上高地からずっと縦走してきたんですけどね、この小屋の居心地があまり
にいいので、ここでしばらくのんびりしようと思っているんです。栂海新道に向かうのは
三日後ぐらいかなあ」
 彼は途中で二回ほど山を下り、食料を買い出してはまた縦走を続けているのだという。
そうしたスタイルで山を歩いている彼を、とても羨ましく感じる。
 まだ陽は高かったが、僕もここで一泊することにした。水汲みがてら、小屋の下を流れ
る雪倉上沢を三〇〇mほど下ってみる。ひょっとしてイワナでも釣れるかもしれないと思
って竿を出したが、成果なし。夕食ののち、ウイスキーをなめながら漆黒の空を駆け抜け
る流星を見ているうちに、静かな山の夜が更けていった。
 八月二〇日 雪倉岳の急なザレ場をひと登りして、ジグザグ道をひたすら下っていくと
、朝露に濡れた花々のなかに神秘的なたたずまいの池塘が多数現れる。ツバメ平から小桜
ガ原にかけてのこの一帯は、北海道の大雪山や日高の山を僕に思い起こさせた。お花畑や
湿原が見られる静かなこのコースは、本州の高山としては珍しい、いぶし銀的な存在だと
思う。
 やがてさしかかった白馬水平道のぬかるみでは、いくら靴紐をきつく結んでも踵がスポ
ッと抜けてしまって閉口する。やっぱり地下足袋にしておいたほうがよかったなあと、つ
い後悔してしまう。
 朝日小屋に立ち寄り、最後のビールで喉を潤す。この先、日本海に下りるまではもうビ
ールも手に入らない。樹林のなかを朝日岳へ向かうと、頂は濃い霧が静かに流れていた。
北側には枝道が何本かついていて、一瞬、迷わないかと不安がよぎる。その心配も、明瞭
な道に出たところで解消。「栂海新道」とペンキで書かれた岩場で休んでいる間に天気も
回復しはじめ、北方の縦走路がはっきり見えるようになった。
 長栂山を過ぎ、爽快な広がりを見せるアヤメ平に出る。原始的な趣を残す湿原、水たま
りのようないくつもの池塘……ここはほんとうに山上のパラダイスだ。青空を映す池塘の
まわりを小さな花々が咲き乱れているが、その花の名前が僕にはわからない。こんなとき
、同行者がいれば聞いてみることもできるのだけれど。この大自然が創造する壮大で美し
い景観にしばし酔い痴れたのち、清流で水を補給し、黒岩山から延々と続いている細い稜
線の道を黙々と歩き出す。
 サワガニ山の山頂で、はるか下方の小滝川の小雪渓を見ながら大休止。緑のなかに映え
る雪の白いラインが美しい。北アルプスにも、これほど単独行者の心をそそるような深い
山があったのかと、つくづく感慨にふける。そんなことを考えながら、夕日が傾くまで気
ままに腰を下ろしているのも悪くはない。
 疲れでヨレヨレになりながら犬ガ岳を越えると、ササが生い茂るなかに、無人ながら暖
かそうな雰囲気の山小屋が建っていた。宿泊することを事前に連絡しておかなかったので
、その旨を宿泊者ノートに記し、静かな夜をひとりで迎えた。
 八月二一日 小屋を出て以来、ほとんど展望の効かない尾根歩きが続く。登下降も激し
く、山中マラソンでもやっているような気分になってくる。白鳥山、尻高山と過ぎていく
ころには、心はもう日本海に向いていた。とにかく一刻も早く海が見たかった。
 そのアセりからか、二本松峠付近で道を間違え、風波川のほうへ入り込んでしまう。か
まわずそのまま下っていったのだが、それが失敗だった。汗の臭いに誘われてアブが集ま
りはじめ、僕の体のまわりを人工衛星のように集団で飛び回るのである。スキあらばチク
リと刺してくるからたまったものではない。追い払っても逃げても執拗に追いかけてくる
。とうとう我慢できず、ザックを放り出して沢の水の中に飛び込んで全身を隠す。まるで
カバかアリゲーターのように水面から頭だけを出して様子をうかがうと、アブはザックに
集中攻撃をかけているではないか。
 このままではいつまでたってもラチがあかないので、仕方なく猛烈な早さで斜面を駆け
下る。それでも日本海まで二~三匹は追いかけてきた。
 目の前には、夏の強い日差しのなか、明るく澄みきった日本海がいっぱいに広がってい
た。やっとのことでアブから開放された自由を噛み締めつつ、潮の香りと涼風にさらされ
ながら、飽きることがないくらい海で泳ぎ回った。

横断ルート最後の空白部を埋める秋の小川路峠越え

 かれこれ一三年前に第一歩を記した本州横断山行も、いよいよ中央アルプスと南アルプ
スを結ぶ一部のルートを残すのみとなった。この最後の空白地帯を埋めるにあたり、伊那
山脈を横断するルートとして昔の人々が盛んに往来していたという秋葉道を歩くことに決
める。
 秋葉道とは、現在の飯田市から小川路峠(一四九二m)を経て遠山川に下り、さらに青
崩峠を越えて遠州秋葉山へと至る道のことで、明治以降は「秋山街道」と呼ばれていたと
いう。今回、僕が歩いたのはそのうちの一部、飯田市~小川路峠~上町のコースである。
 出発前の準備の段階で古い文献を調べていたときに、山岳雑誌のバックナンバーのなか
に飯田山岳会のメンバーが飯田側から小川路峠までを歩いたという短い記事を発見した。
その先の上町までのコースについては何も記されていなかったので、五万分ノ一地形図を
広げてみたところ、峠から上町まではちゃんと道がついている。それでも念のために飯田
山岳会に電話で問い合わせてみると、近年は峠から上町方面へは誰も歩いていないはず、
との返事が返ってきた。ひょっとして歩けなくなっているのではないかと、一抹の不安を
覚える。
 そこでさらに調べていくうちに、単独行者として名をはせた松濤明がこのコースを歩い
ていることを知る。彼の代表的な名文「春の遠山入り」によれば、遠山まで入る飯田から
のバスに乗り遅れたため、松濤は小川路峠を二日がかりで歩いて越え、その後に南アルプ
スを縦走したとのこと。彼が歩いた一九四〇年(昭和一五年)ごろには、このコースもす
でに峠道としての機能を衰退させていたようだが、コース沿いには宿泊できる小屋もまだ
いくつかあったらしい。また、当時の峠の様子が詳しく記述されており、たいへん興味深
く読むことができた。
●一九八六年一一月二日/秋葉道・越久保~小川路峠~上町
 飯田市の越久保という小さな集落には、のどかな山村風景が広がっていた。水量が豊富
な清水が集落を貫くように流れているのを見て、ふと、この小沢が小川路峠の由来ではな
かろうか、などと思ったりする。
 集落のなかにある古ぼけた観音堂の脇を通り、スギ林のなかの道を登っていくと、小川
路峠のついての案内板が立てられていた。飯田方面の人々が、静岡県の秋葉神社で毎年一
二月一五日~一六日にかけて盛大に行なわれる祭りを見るため、多い日には何百人もの人
々が行列をつくってこの細い道を歩いていったと、それには書かれている。その峠道も、
今は閉ざされたようにひっそりと静まりかえるのみだ。
 深く澄みわたった空には巻き雲がかすかに流れ、針葉樹林の間からは金森山が見え隠れ
する。路傍には一〇〇mおきに素朴な石仏や地蔵が置いてあり、秋晴れの柔らかな日差し
を浴びながら微笑んでいる。
 昔の旅姿を思い起こさせる茶屋の跡や馬を休ませた場所を過ぎると、草がぼうぼうと繁
った細い小道となる。さらに急坂をトラバース気味に登れば、そこはもう標高一四九二m
の小川路峠の頂である。
 あまり広くない峠には、苔のついた石仏が何体か倒れかけており、石垣の跡もかすかに
残っていた。誰もいない峠でひとりしずかにたたずんでいると、以前、中央アルプスから
帰る列車のなかで言葉を交わした初老の男性のことを思い出した。“峠道愛好家”を自称
する彼は、酒を飲みながらこう言っていた。
「今日は小川路峠というところへ行ってきたんですがね。そこがもう、とてもかわいらし
いところでねえ」
 そのときは、「かわいらしい峠とはいったいどういう峠だろうか」と不思議に感じたも
のだが、実際に来てみると、たしかに彼の言った通りだと思う。山鳥のさえずり、石仏、
昔の面影、静けさ……すべてが“かわいらしく”感じるのである。
 上町方面へ下る道は、心配していたとおり、クマザサが生い茂る急な道であった。それ
でもササの下にはかすかな踏跡が残っており、腰をかがめながら下っていく。草むらのな
かには、うっかりすると見落としてしまいそうな石仏が何体も眠っていた。
 徐々にササが途切れてくると、晩秋の紅葉がみごとな金森山の頂が見えはじめる。秋の
美しさというのは、単独行だとよけいに目に染みてくるようだ。
 土砂崩れの跡を苦労して登り、崩壊した沢をいくつも越えていくと、やがて樹林が深く
なって道が数本に分かれる。どの道をとるか迷うが、相棒もいないので勝手に左の登路を
選んで進む。間もなく、下に車道が見えてきた。それを横切り、あまり歩かれていない細
い道をゆっくりと上町まで下っていった。
 この峠越えで、太平洋と日本海を結ぶ本州山岳横断をやっと完遂できた。岐路は起点の
越久保までヒッチハイクをして戻ったのだが、念願の夢を果たせた嬉しさから、僕を乗せ
てくれたいかにも人のよさそうなおじさんにも、苦労して成し遂げた本州山岳横断の話を
聞いてもらうことにした。
「今日は僕にとって記念すべき日本横断が完成した日なんです」
「はあ-、世の中には変わったことをする人がいるもんなんだねえ」
 そう言いながらも、彼は僕の話を喜んで聞いてくれたのである。

テーマは無限。自分なりの横断山行を作り上げてみては

 過去に日本横断を果たしたなかで最も興味深いのは、今から四〇〇年も前に富山城主の
佐々成政ら一行が富山~静岡・浜松城間を往復したという記録であろう。途中にある敵の
領土を避けるため、なんと彼らは厳冬の針ノ木峠を越えていったのである。当時としては
、まさに驚くべき所業といえよう。
 本州横断の記録については、ここ数年の間にも雑誌等で多くの記録が発表されている。
そのなかには、東経一三七度の線に沿って名古屋から輪島までを一直線につなげたユニー
クなヤブ山山行もあれば、かなり年配の方が近畿地方を横断したという記録もある。また
、机上プランとしても、三〇〇〇m峰をすべてつなげる、積雪期のみの縦走でつなげる、
沢や川だけをたどってつなげる、いつくもの県境を踏破してつなげるなど、さまざまなテ
ーマを考え出すことができる。
 つまり、人それぞれ好きなテーマで自由にルートがとれるということが、この日本横断
のおもしろさではないだろうか。そのうえで、こうしたらもっとおもしろいんじゃないか
、こんなこともできそうだ、などと試行錯誤を繰り返しながら自分なりのルートを作り上
げていければ楽しいんじゃないかと思う。
 もちろん、横断ルートは本州に限ったものではなく、北海道や四国、九州でも実現は可
能なはずだ。本州ではちょっと困難かもしれない縦断ルートにしても、これらの地域では
比較的容易にできるだろう。たとえば北海道についていえば、日本海側の小樽から支笏洞
爺国立公園の山々を山スキーで縦走して太平洋側に抜けた記録も見られる。
 こうした横断・縦断プランは、なにも特別な人だけに許された楽しみ方では絶対にない
。僕にだってできたのだ。ルートのとり方次第では、誰にだってできるはずである。だか
ら、自分の山登りがちょっとマンネリになってきたなあと思ったら、やってみるといい。
ただ漠然と山へ登るよりは、なにかひとつ目的意識を持って登ったほうが楽しみも大きい
のではないだろうか。
 山スキー、縦走、沢登りなど、バラエティに富んだ山行でつないだ僕の本州山岳横断は
、とりあえずは海から海を一本の線で結んだものの、いまだ完結していない。というのも
、のちに山行を重ねるごとにルートが変わってきているからだ。おもしろそうなルートを
があれば、そこへ赴いてどんどんルートを修正していく--その自由さもまた、横断山行
の大きな魅力のひとつだと思っている。



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