CAUSE, I LOVE THIS
TATSUO ISHITSUKA
石塚竜夫
さすらいのスキーヤー
<自分なりの ROCK & SNOW> ガキの頃は体が弱くて、小5までは一切の運動が禁止されていた。 へたれの自分が嫌だった。缶ケリではいつでもいつまでも鬼だった。 小5から自転車、スキー、バスケを、高校から空手そして山を始めた。 親はスキーをしなかった。一人で上越方面のスキー場に電車で行っていた。 越後中里の壁で、コブと湿雪に鍛えられた。 三浦雄一郎氏とグレン・プレイクにあこがれた。アウトロー的な自由さに惹かれてい た。 親父が昔使っていた、マナスルのラジウスで自転車のツーリングを始めた。 ふきこぼれて火が消えたラジウスの再点火ができずに、芯のある米を食らっていた。 チューブテントの雨漏りでびしょびしょになりながら、ポンチョをかぶってペダルを 漕いだ。 大学の4年の時、G県とN県の県境にあるマイナーなスキー場でイントラをした。 ポールに入るようになった。師匠である校長と、ナイターの無いゲレンデを登っては 滑った。 それからの何年も、シーズン券を買って毎年30日以上このスキー場に通った。 ふと行った他のスキー場で、オヤッサンイントラに、 「お前N先生の弟子だろう。滑りを見ればすぐわかる」と言われ、無性に嬉しかっ た。 山に登るようになっていた。休みはいつも山に入っていた。 連休はなかなか取れなかったが、山が近かったので毎週山に行っていた。 連休が取れると、縦走を繰り返した。 世話になっていたスキースクールが、不景気のため閉校になった。 すばらしいイントラたちも、みなバラバラになってしまった。 わけの判らない怒りと共に、テレマークギアを買った。 BDのシンクロXとアゾロのレザーブーツを買って、1週間後には草津へ、 その翌週には谷川を滑っていた。 自分の好きな山の違う姿が見られるのが嬉しくて、繰り返し、繰り返しバックカント リーに入った。 パートナーが居なかったので、いつもソロだった。 今の会社に入った2年半前、いろいろなことが変わり始めた。 より充実したバックカントリーテレマークができるようになっていった。 フリークライミングを始めた。最高グレードは11a、まだまだこれからのへっぽこ だ。 でも5.9 や 5.10前半のマルチピッチが楽しいと思う。 ハンギングビレイをしながら下を見ていると、ずっとあこがれていた世界に 今自分がいる、そんな気持ちがする。 縦走中に見かけて目を奪われた岩や斜面を、登り、そして滑っている。 <仲間> 休みの関係で、会社の同僚が多い。 ニョーボとはキャンプ、ハイキング、ゲレンデスキー(向こうはスノーボード)。 <最近行ったところ> 縦走では北ア。日光白根と奥鬼怒、谷川、尾瀬。 クライミングは湯河原幕岩、榛名黒岩、小川山。 テレマークは2001-02シーズンでは立山と谷川(天神)。 ハイシーズンになると、草津エリア、谷川、上州武尊が中心。 GW直前の尾瀬至仏がお気に入り。 <WHY ROCK AND SNOW?> だんだん足元に低くなって行くボルト、頬をこすりつけた岩の感触、 手繰りあげたロープがカラビナのゲートを鳴らす音、そして安堵、 股の間に小さく見えるセカンド、熱くなったエイトカン、 いっぱいに伸ばした掌に飛び込んでくるガバホールド、、、 ゴーグルのエアインテークを詰まらせるパウダー、 シールに抑えられた雪の小さな声、やがて見えてくるピーク、 雪洞の中で迎える静寂、象足を履いて出る夜間の除雪、 暗闇の中吹雪をついて微かにさす月光、 ガソリンストーブの轟音、ビールを飲み干す連中の笑い声、 ツェルトの中に降る霜、、、 <今後の計画> 娘が誕生した。年明けからは仕事も変わることになった。 いろいろな変化がまっているだろう。でも、、、 10年後か20年後に、娘があこがれるようなアウトドア親父でいたい。 BACK TO PEOPLE BACK TO TOP PAGE