アンテナ山とタクルギン山ハイキング
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7月5日ー10日 member matukura kisya ウルムチは思いもよらぬ大都会だった。 60年代の古い写真をみていたのだが西域の小さな町としか思えなかった。今の光景はまるでバンクバーかシアトルか。 摩天楼が広がり、高速道路が走る。50年のあいだに、例えば、信州諏訪郡原村が新宿に変貌したようなものである。 そうすると、かのエリックシプトンも駐在したという憧憬のカシュガルなどは渋谷の喧騒状態になっているのかもしれない。 四つ星ホテル環球飯店内の旅行エージェントで天池行きの一泊ツアーを希望すると、すぐに手配してくれた。一人30 0円だという。 飛行場で入手したパンフレットで相場研究していたので、それは高い、というと、中国人向けのツアーでは なく、高級冷房車で行く外国人用ツアーです、という。 すぐに日本円に換算して納得してしまうまっちゃんの、ま、いいか、の一言で、その場で支払い。 7月5日 ボゴダ峰や中央テンシャンを望む最上階の回転レストランで朝飯をとり、9時に迎えの小型バスで出発。なんのこと はない成都あたりから来たらしい旅 行者といっしょ、冷房車とはいえただのハイエースである。 話がちがう。美人のガイド嬢はよく通る声でえんえんとしゃべり続ける。(このあたりの人は一般にとにかく大声であ る)賢そうな顔だちでもある。もちろん中国語だ から意味はわからない。もうひとり美人のガイドがわれわれのそばにいて、聞くと、われわれの為についてきた英語専 門ガイドとのことだった。長身、腰高、モデルのようにさっそうと歩く聡明そうなシティガギャル、漢人。 都会をはなれるといきなり砂漠地帯に入り見渡すかぎり家一軒なし。高速道路を降りるといきなり山道を紆余曲折する ようになる。ボゴダの山塊へ登っているのだ。道路わきにはときどき、初めてみるパオの集落があらわれる。 ウルムチから天池までは60キロ、1時間ちょとのドライブである。ウルムチで高曇りだった空模様は山間には いって曇りとなりやがて大雨となる。 話がちがう。このあたりはシルクロード、年中カラカラの砂漠気候ではなかったのだろうか。 天池は、いちおう想像していたとおり、いやそれ以上の観光地であった。中国語でいえば旅遊地区である。朝、団体バ スがやってきて、客をおろし、彼らは湖のほとりを散策し、ボートにのったり焼き羊を食べたりして午後には去っていくとい う場所である。晴れていれば湖の向かいにはボゴダの山波が広がっていて、大正池に穂高連峰、という図式に近い。 湖畔の駐車場で車をおり、10円で折りたたみ傘を買う。土砂降りである。ほかの客と別れ英語をしゃべる美人ガイドに ついてぬかるんだ山道を小高い丘に向かう。羊の群れといっしょにパオの集落が現れ、いちばん高いところにあるパオ に到着。パオを間近にみるのは初めて。 赤ら顔で長身のカザフ人老若男女が何人も現れ迎えてくれる。英語は話すし、日本語まで話す人たちだった。20畳ほ どのパオの中には若い男女のグループが先着して占領していた。香港からきた若者たちらしい。やはり漢人の美人ガイ ドとドライバーが一緒だ。小さくなって輪のなかにいれてもらう。このパオの人らしいカザフ人のお兄さんがギターで 弾き語り、香港歌謡曲や中国のフォークソングなどをみんなで歌っている。歌声喫茶というのはこんな感じだったのだ ろうか。 われわれも、ひたすらニコニコ顔で応対。外は大雨、ほかに行くところもないから、なりゆきでこうなってしまうので ある。 われわれ付きの美人ガイドは、ここに一泊していくか、一度ウルムチに戻り明日また迎えにくるか、で迷っているらし かった。ようするに彼女の任務はわれわれをこのパオまで連れてきて、翌日連れて帰る、ということだったのだ。ギタ ーをカザフの2弦琴に切り替えたお兄さんが、問題ないよ、ぼくがすべて面倒みて上げるから、というので、雨のなか 彼女は振り返りながら去っていった。パオの中があまりに陽気だったので、帰りたくなかったのかもしれない、という のは僕の想像である。 羊の丸焼きがでてきて、そのうちトルファン葡萄酒、伊力白酒などが回ってきて、パオの中は騒乱状態となってしまっ た。広東語、カザフ語、日本語が入り乱れ、乾杯が続く。われわれがカザフのエルビスと密かに呼んだギターのお兄さ んが酔いつぶれるころには、ようやく雨もあがり、傾いた日差しが天池とボゴダ峰を照らしていた。 エルビスの母親は頭にスカーフをまき、大型スカートにロングブーツという絵に描いたようなカザフのおばさんだが、 (じつは、この方はきっとお祖母さんなのだろうとわれわれは初め考えたのだが、エルビスは母親だという。彼はどう やら子たくさん兄弟の末っ子、道楽息子であるようだった)、 おまえ、こんなところで、お客さんといっしょになって、お酒を飲んで、酔っ払って、ほんと、しょうがないね、どう なっているんだい。さっさとお起きよ。んったく。などとまくしたてているのであった。 パオをでて雨上がりのあたりを散策。パオは羊のフェルトでできた本物で、このあたりに100軒ほども散在しているよ うだ。 それぞれのパオの前には野天のかまどや焼き羊用のグリルなどがあって、日よけパラソルとプラスティックのテーブルやい すが並んでいる。羊の骨や内臓などがゴミ捨て場には散乱していて、ようするに、この100軒余のパオは観光客用の喫茶店でありバ ンガローなのである。 麓の村に定住している元遊牧民のカザフ人たちが夏のあいだここで観光業を営んでいるということのようだ。観光パオ 村には、羊や馬、人間の子供などが区別もなくあふれていて、ベレー帽に黒背広という典型的なカザフの大人たちは、 馬に乗ってはあっちのパオ、こっちのパオをなんの用事があるのか行ったり来たりしている。お茶を飲んだり、ビール を飲んだりしているのは男だけで、働いているのは女性ばかりである。 あれはお兄さん。これが妹の旦那、こいつはいとこ、と紹介されるのだが、ようするに親戚や隣組など村をあげてここ に移住してきているようなのだ。 エルビスのおねさんが羊を焼きながら完全な英語であれこれ説明してくれたのだが、結局ここのパオ村はワールドフェ イマスというのが結論であった。 (日本で見たボゴダ峰の英語の登山ガイドブックには、天池の北に数軒のカザフ人のパオがあって、5円か10円で泊ま ることができる、ベースキャンプまでは強1日と書かれていたが、実際はこんなようなのである)。 羊肉いりのうどんが夕食だった。美味。まっちゃんは、野菜やフルーツには絶対手をださない。食器やコップ、ハシは 日本から持参のアルコール綿で消毒してから使用している。飲用水はもちろんボトル入りのものである。 この小さいパオに今日の客が全員泊まるわけにはいかないということで、暗くなるころエルビスのお姉さんが近所のパ オにわれわれを連れて行ってくれた。昼間に顔なじみになった何番目かのお兄さんのパオだった。大きくて立派なパオ。 中には何人かの子供たちと、カザフスタンからきたという親戚の女性たちがテレビをみていた。夕食後の団欒であった。 再び強いお酒がでてきて、眠い眼をこすりながらのおつきあい。白酒はマオタイよりもウオッカに近いのではないかと 想像する。テレビはdvdプレイヤーにつながっていてカザフの紅白歌合戦を上映中。パオ内の茶髪青い眼の女性たち はプレタポルテような美しい洋服をきて、小麦粉をこねながらテレビを見ているのが印象的だった。 よその家に泊めてもらっているような感じで(実際そのとりなのだが)落ちつかない気分だったが、いつのまにか就寝。 パオは高床式になってい て、床はいくらか弾力があり、そこに敷布団をしき掛け布団をかけて寝るのである。パオは円形でしきりなどないから 仲良く輪になって寝るのである。ああ疲れた。 7月6日 昨日は長い1日だった。が、いよいよハイキングの日である。朝から絶好の天気。このパオ村からは天池とボゴダ峰が よくみえる。昨日の雨は、向かいの山では雪になったようだ。雪線がすぐそこまで降りてきている。振りかえるとさら に展望のよさそうな山がパオ村の背にそびえている。 エルビスとそのお姉さんにきくと、日本語と英語でいろいろと教えてくれる。 あの高い山がカンテラ山、その右にそびえるちょと低いのがアンテナ山。 カンテラ山までは日帰りは無理だという。ぼくの目には2.3時間もあれば到達できそうに見るのだが。となりのアン テナ山までならなんとか行けるかもしれない。 道は? あそこから、行ける、と、となりの小尾根を指差す。タカが何羽も上空を飛び交っている。 デイパックを背負ってまっちゃんと元気に出発。 林をぬけ尾根にでる。さらに台地上の草原があらわれ、ヒツジを締めている人に道を聞く、がなんのことかわからない。 地図もないからカンで登る。植物、樹木相などは上高地あたりとおなじである。パオ村が標高1500、だからそんなもの なのである。再び台地上の草原があらわれ、パオ村が現れる。日傘パラソルやプラスティックテーブルなど置かれてい ない本物のパオ村である。このあたり 一帯でヒツジの放牧を行っているのだ。2時間ほど登ると目指していたアンテナ山が見えてきた。よくみればたしかに 八木アンテナが見える。顕著な尾根の上をさらに行く。一帯は放牧場。ヒツジや牛が三々五々。目の下にはパオ村がと ころどころに点在している。さらに谷底には天池が大きく広がっていて、大向かいには懸垂氷河をもったボゴダ峰が険 しい姿でそびえている。あたりは高山植物のお花畑、エーデルワイスやそのほか日本のアルプスでみかける親しい花々 が散在している。 こりゃまったくスイスじゃね。 ニュージーランド、ともいえる。 緯度、標高が似かよってくれば、おなじ地球の上、なんやかや、そっくりになってくるのというのが僕の経験論である。 牧童が歩く道が続いていて最後100メートルほどの急登を頑張るとなんのこともなくアンテナ山に立つことができた。 標高2300。 南北に長い頂上の南端からボゴダの絶景を写真に収める。ここに立って分かったのは、となりのカンテラ山が尾根続き であることだった。あと小一時間も登れば、カンテラ山にもたどり着けそうだ。それは次回のお楽しみということにして、頂上の北側サイドに立つ。巨大な八木アンテナがあってこれが山名の由来である。北側をみるとえんえん砂漠地帯 が続いているのがわかる。顔を西に向けると、なんとウルムチの市街と摩天楼が砂漠の遠くに蜃気楼のように浮かび上 がっている。 やあやあ、あれがウルムチであったか、なぜか喜ぶ二人。 アンテナがあるわけだ。 5.60キロも離れた町が見渡せるのだから、この山もとなりのカンテラ山も、重要な中継場所となったわけだ。古代、い つころのことかわからないが、シルクロード上の都市ウルムチととなりのどこかとの連絡に、古くはカンテラ山に灯台 が置かれた。いまはこの山に八木アンテナが設置されている、と考えるのは自然だろう。 下りは、尾根から沢へとくだり、迷うことなくまっすぐに観光パオ村に戻ることができた。1時間ちょと、南アルプス の森林帯をくだるような美しい快適な下山路だった。 パオ村に戻ると、すでに香港グループは去っていたが、朝と同じににぎやかの光景が展開していた。エルビスは中国人 の新しいお客とビールを飲んでギターを弾いている。おねえさんはラグ麺を作っていて、お母さんはヒツジを捌いてい るところだった。 エルビスがビールを持ってきて、心配していたよ。戻ってきてよかった、さー飲もう。 山のほうで本物のパオ村とシリアスなカザフ人をみてきてしまったから、どうしても、この観光パオ村のカザフ人たち は失格した遊牧民のように見えて仕方がない。八ヶ岳の赤岳コウセンにでもいるような気分になってきた。 ウルムチが見えたよ、というと ほんと?と驚いた顔をする。そのうち、今夜は一緒にウルムチにいって飲もうと言い出す始末。昼から酔っ払い状態 なのである。 酒があるところには酔っ払いがいる、というのは地球の上のどこの民族でもおなじ、僕の経験論である。 迎えの車のドライバーがパオまで歩いてやってきて、ウルムチへはフォルクスワーゲン車での快適な帰還であった。 ウルムチー天池間には公共バスもでているので、それなら往復50円もあれば十分のようだ。 パオは1泊10円か20円だから、真のバックパッカーならわれわれの何分の一もの費用で同じ経験が楽しめるだろう。 4つ星ホテルに泊まって旅遊するわれわれは彼らからみれば失格したバックパッカーに見えることだろう。 なお、このときの為替は1人民円(元)は16円である。 7月7日 やはり旅遊区で有名な南山牧場へ観光。南山とういのは南に天山を控えるという意味でそのあたり何百キロかのエリア をいうらしい。標高4000メートルの氷河見物が目的であったが、雪のため通行止めとのことで、一日時間をつぶ す。帆布でできた偽のパオ食堂がたくさん集まっているあまり美しくないところでした。天山の山並をみることもなかっ た。白揚谷の奥の50メートル滝は現地の人には神秘に見えるらしく人気。とすると華厳の滝をみたら彼らは卒倒するかもし れない。The tienshan photo by kisya ito for more, please click here
7月8日 バインブルクへむかう。 朝8時に旧型ランクルとともにガイドとドライバーが迎えにきた。日本の西遊旅行で手配したものだ。トルスジャンは ウイグル人で日本語が上手、ドライバーはうーさん、漢人。 ウイトンまで高速道路を300キロ。途中でパンクあり、クイトンでラグメン昼食ののち、修理。パンク修理が5円と 聞いて人件費の安さに驚く。 町からいきなり南下して天山山中に突入。地球造山運動の見本をみるかのような、山、尾根、谷、峠を300キロ。途 中通行止めがあり80キロ迂回、ダート道の高速ドライブを10時間。暗くなるころ、といっても時間は午後の10時、 (これは北京時間。じっさいのところ新疆人は新疆タイムで暮している。夕飯は日の沈んだあと10時ころにとるので ある)ようやくバインブルクに到着。西部劇にでてくるような荒れ果ててくすんだ町にみえる。モンゴル人の経営する コンクリート作りの偽パオに宿泊。バインブルクについては資料もなくただただ想像していたのだが、予想よりもしっ かりした古い町がテンシャン山中にあることに驚いた。このあたり一帯はカザフとモンゴル人が古くから遊牧している エリアで、大草原とヒツジとパオの世界がえんえんと広がっているところであることを知る、とくに迂回路のナッテイ 草原はすばらしいところだった。さらに今日一日のドライブでテンシャンは北アルプスほどのスケールの山脈がいくつ もならび、氷河を抱く無名の山々が無数。間に草原、高原がいくつもあって、その規模は本州ほどであること を知った。本来乗馬で移動するのがここの伝統であることにも気がついた。観光客は少ない、が日本人夫妻にあう。秋 田からきた長谷川さん。シルクロードエリアが気に入って4回目の訪問とのこと。中華夕食をとる。トルスジャンはと なりの回族レストランからヒツジのピラフをとりよせ食べていた。白酒を飲み始めるととどまる所を知らず。たいへん な酒豪であることを知る。イスラム圏であろうと酒のあるところには酔っ払いがいるのである。 7月9日 白鳥湖を見に行く。道がないのでドライバーのカンで四輪駆動車を走らせるのである。 草原だからどこでも走ることができる。ときどき川をこえようやくたどりつく。白鳥湖は大湿原であった。白鳥はテン シャンの山々に溶け込むように飛んでいた。馬を借りて乗る。白鳥湖へは往復3-40キロなのに4時間ほどかかる。新 道を作っているようだった。 昼めしのあと、怪しい雲行きのなか、まっちゃんが街外れにそびえるタクルギン山へハイキング。珍しく草原の中にそ びえるボタ山。アメリカならビュットというやつ。いただきにチョルテンがあってノボリが見える。イスラム教のカザフ人と ラマ教のモンゴル人が共存するところであるらしい。とはいえ、このあたり一帯チベットのようなマニ石などの表象物 はまったく見当たらない。すっきりしてきれいなものである。 往復2時間もかからない。日本人初登頂かも、と意気揚揚と帰ってくる。ぼくは昼寝していてこの貴重な2番目の ハイキングを逃してしまった。まっちゃんはチョルテンを前景に素晴らしい写真をものにしたのだった。 夕方、ドライブして草原の夕景を撮影する。ここはモンゴルにつぐ中国第二の草原であると聞く。 7月10日 標高が2500ほどの高原だから朝夕は冷え込む。羽毛服でもちょうどよい。朝9時出発。テンシャン横断の後半戦。ダ ート道の高速ドライブが300キロ。再び天地創造をおもわせる現場を何箇所もこえて行く。3000メートルの氷河 の峠を二つほどこえ、テリメチ峠のトンネルを越えると車は、シルクロード上の砂漠の町庫車(クチャ)に急降下する。 亀慈ともいわれた古い町である。気温はいきなり35度を超えなんとも熱い。砂漠にはラクダがいて、ポプラ並木をロ バ車が走り、白帽をかぶったウイグル人があふれるイスラムの町。町で床やに入ったら4円 で散髪してくれた。毛家飯店で中華食。紅衛兵スタイルの少女たちが給仕してくれてなぜか毛沢東バッジをくれる。オ ーナーがでてきてニコニコとウエルカムしてくれるが、この漢人がなぜそんな時代錯誤の主張するのかわからなか った。 それにしても、今回出あった人たちのすべてがわれわれに親切の接してくれて、いま好印象しか残ってないというのは どうしたこと か。帰路のウルムチ、西安にいたるまでその後の数日も、旅行者であるわれわれに不愉快な思い出はひとつもない。タ クシーの運転手、ロバや力車のドライバー、ウエイトレス、みやげ物やのおねえさん、屋台のおばさん、何人かの警察 官(旅券紛失で世話になった。別述)、町の子供、日本人と知ってか知らずか、 とにかく好意をもって接してくれているとしか考えられなかった。 忘れがたき西域の人々である。大人の趣のある方たちであった。なんだか以前とは違うぞ、中国はどんどん変わっている。 7月13日、ウルムチの夜。いきなり爆竹がけたたましく、花火が町のあちこちであがる。テレビをつけると2008 年の北京オリンピック開催が決定したとの報道であった。その夜中央電視台は紅白歌合戦のような特別番組を徹夜で流 し続けているのだった。中国はもっと変わるに違いない。 おまけ。 レンタカーなどないから、中国の旅ではいろいろな乗り物を利用する。ドライバーとの接触が多い。(次に多いのは食堂 のウエイトレスか、ガイド嬢や街角の万屋などとも顔なじみになったりするから、旅をするとほんとにいろんな人と接触 するものだとつくづく感心してしまう)。 印象に残るドライバーをメモしておきたい。 天山横断の実力派ドライバーうーさん、ロバ車の子ども、馬を貸してくれた子ども、床屋まで連れていってくれたオート力 車方、サンマのようなお調子もの西安サンタナドライバー、気の毒だったカザフのハイヤー運転手、初乗り6円を5円にま けてくれた西安のドライバー、律義なクチャ旅遊のジェッタの運転手、環球ホテルの私立探偵風ドライバー、2本の夜行寝台 の警察官,婦警、、、。 うーん、中国の旅は面白い。